後輩指導
月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2008年4月号)をお求めください。もっと面白いはずです。なお、本文中の情報は原則として連載当時のものですのでご了承ください。
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このコラムも4年目を迎えた。社会人4年目ともなれば、後輩指導をしなければならない年齢だ。そこで、今回はいつもと趣向を変えて、指導する立場での心構えを書いてみたい。
●若者世代を理解できない
4月は新入社員の時期である。そして、毎年「新入社員の気持ちが分からない」とぼやくのが先輩社員である。若者世代をなんとか理解しようと、評論家は世代ごとにラベルを付け、かえってコミュニケーションギャップを大きくしている。例えば1950年から1957年に生まれた世代は「しらけ世代」と呼ばれた。1958年から1967年は「新人類」、そのあとは「バブル世代」である。どの世代も、いままでの常識が通用しないと言われた。
しかし、現在定年を迎えようとしている世代だって、昔は「団塊(だんかい)の世代」と呼ばれ「大人がマンガを読むなんて」と非難されたものである。何しろ、その世代が起こしたテロ活動の声明文が「我々は『あしたのジョー』である」だし(*1)、ニャロメ(*2)は学生運動のマスコット的存在だった。
実際には、先輩社員が理解できないのは、人間ではなく時代の流れだろう。例えば、大人の鑑賞に堪えるマンガが登場したのは、「団塊の世代」の子ども時代以降である。当時の大人はマンガを読む習慣がなかったはずだ。
また、仮に世代による特徴があったとしても、(評論家や社会科学者を除いて)世代分析には意味がない。個人による違いの方が大きいからだ。陰気なアメリカ人、いい加減なドイツ人、シャイなイタリア人、外向的な日本人がいるのと同じである。
●その「常識」が分からない
時代が変わっても、仕事が変わらない限り、やることは同じだ。後輩を理解しようと、特別にこびる必要はない。ただし、注意しなければならないこともある。よく言われるように、学生と社会人では「常識」が違うという事実だ。
筆者の同僚は、新人研修中、受講生に「それは常識でしょう」と言ったら「その常識を身に付けるために新入社員研修があるんです」と反論されたらしい(*3)。
「常識」というのは、国や職種、世代によっても変化する。かつて、電話に出るときは必ず自分の姓を名乗るのが常識だった。現在は、詐欺を防ぐために名乗らないのが常識だという。表札にしても、家族全員の姓名を掲示するのは非常識な時代になってしまった。
新入社員研修というのは、ある会社の一員として必要な常識を身に付ける期間である。新入社員が非常識なのは当然なので、「非常識だ」という理由だけでしからないようにしたい。常識には、それがなぜ常識になったかという理由があるはずだ。その理由を示して説明しよう。理由が分からない場合は、正直に「なぜかは分からない」と言ってよいと思う。また、理由が分からなくなった常識や習慣は廃止した方がいいこともある。
●間違いを指摘するには
後輩が間違ったことをしたら、それを指摘して必要な処置を行い、同じ間違いを繰り返さないように指導するのが先輩の役目だ。この時、最も重要なことは「問題の指摘と再発の防止」である。
以前にも書いたが、問題を指摘するときは事実を先に伝え、感想は後回しにする。多くの場合はしかる必要すらない。問題を指摘されるだけで、十分に反省するものである。深く反省しているときに、さらに「反省しろ」と言われても反発するだけだ。いわゆる「逆ギレ」である。
以前、筆者の同僚が寝過ごして、大事な仕事をすっぽかしたことがあった。連日の深夜残業で疲れていたせいだ。もちろん本人は上司に平謝り。ところが、上司は「目覚まし時計はセットしてなかったのか」などと、延々と小言を言い続ける。ついに逆ギレした同僚はこう言った。
いいですか、今朝のわたしは死人と同じだったんですよ。
死人に目覚まし時計が役に立ちますか?
この発言は「死人に目覚まし」事件として、十数年後の今に至るまで語り継がれている。
「死人に目覚まし」に対する正しい処置は、責めることではない。寝過ごした結果、まず、どのような問題が発生して、その対応のために誰が何をしたのかを本人に伝える。普通はこれで十分反省するはずだ(実際、十分反省したと聞いた)。
次に、なぜ寝過ごしたのかを考える。この場合は、目覚まし時計が壊れていたのではなく、残業が続いたせいだ(何しろ、死人に目覚まし時計は役に立たない)。対策としては、残業を減らすか、それができなければ朝一番の仕事を割り当てないことだろう。
いずれにしても、上司が決定すべき問題だ。新入社員の失敗の多くは、指導者の責任である。
ただし、新人の場合は「常識」がないので、問題そのものが理解できない場合もある。何が問題なのかを説明する必要はあるだろう。しかし、常識がなく、仕事ができなくても、新入社員はれっきとした大人である。子どものような「しつけ」は必要ないし逆効果であることを忘れないで欲しい。
●効果的なしかり方
筆者の高校時代「せこい」という言葉が流行した。当時は、本来の意味とは離れて、相手に対する不満の表現として使われていた。何かにつけ「せこい」を連発する生徒に対し、現代国語の教師が静かに言った。「『せこい』というのは、もともと『世故に長けている』という意味なんだよ」(異説もある)。
特に禁止はされなかったが、意味もよく分からずに目新しい言葉を使っていた自分を恥じて、それからは無意味に使うことはなくなった。指示するよりも、自分で考えさせる方が効果的な例だ。
大声を出してしかることも避けたい。大声でしかっている人は、人間として成熟していない印象を周囲に与えてしまう。一方、しかられた方は、大声だけが印象に残り、肝心の内容が記憶に残らない。筆者も教師にどなられたことがあるが、その内容はまったく覚えていない。自分が損をするだけで、しかった効果も得られないのでは意味がない。
また、大勢の前でミスを指摘することも良くない。しかるときは個別に、ほめるときは大勢の前で、というのが原則だ。一般には、当事者のモチベーションを上げるためとされているが、別に本人のためを思っているわけではない。いつもしかられている人に仕事を任せたいとは誰も思わないだろう。そして、仕事を任せられない人が勤務しているのは無駄である。できるだけ多くの人が、多くの仕事を行える方が、会社にとって効率がよい。
●損得勘定を考えよう
仕事をする以上は、打算的に動きたい。それも、短期的な打算ではなく、長期的な打算である。例えば、ここでしかったら誰が得して誰が損をするのかを考えてほしい。
大勢の前で怒鳴りながらしかったら、しかられた人は恥をかき、仕事をする気がなくなるかもしれない。仕事の効率が落ちると会社の損失である。しかった人は「怖い人」と思われ、仕事の相談が減るかもしれない。コミュニケーションが取れなくなるのは自分に対する損失である。怒鳴ることで、一時的に自分の感情は収まるかもしれないが、得することは何もない。
そもそも、新入社員教育そのものを打算的に行うべきである。後輩ができたからという理由で張り切っても別にいいことはない。先輩社員が、後輩社員の面倒を見るのは愛情でもなんでもない。自分の仕事を後輩に引き継ぎ、新しい仕事にチャレンジするためである。それは自分のキャリアアップにもなるし、会社の利益にもなる。ここに感情が入ってしまうと、人間関係がぎくしゃくする。
考えてみてほしい。愛情で結ばれている(はずの)家族や夫婦は、契約や打算で結ばれたビジネスパートナーよりもずっとたくさん喧嘩をする。円滑な人間関係を維持するには、打算的に行動すべきなのである。
ビジネスの関係を超えて、より深く付き合いたいと思うこともあるだろう。もちろん、それは素晴らしいことだが、それは結果であって、目標にすべきではない。そう考えると、新入社員の気持ちが理解できないことを悩む必要はないことが分かる。
注意すべき点は、「新入社員は社会人としての常識を身に付ける機会がなかった」「新入社員は大人である」この2点だけだ。ぜひ、新人育成に力を入れ、自分の仕事が楽になるようにしてほしい。大事なのは自分と、自分の会社である。
「自分が幸福になるように働け」本田宗一郎「一日一話」(PHP研究所)
(*1)あしたのジョー
高森朝雄(梶原一騎)原作、ちばてつや画によるボクシングマンガ。よど号ハイジャック事件の犯行声明に使われたことで有名になったが、「あしたのジョー」の評価が下がることはなかった。
(*2)ニャロメ
赤塚不二夫作のギャグマンガ「もーれつア太郎」に登場するネコ。ニャロメと、すぐ発砲する警官との関係は、全学連と官憲の関係だという。
(*3)聞きようによっては険悪な感じだが、既に十分親しくなってからの発言なので、和やかな雰囲気だったと聞いた。
出典:
田中淳子『速効! SEのためのコミュニケーション実践塾』日経BP社、2004年。
田中淳子『はじめての後輩指導 知っておきたい育て方30のルール 』日本経団連出版、2006年。
編集部から上がってきた校正では「結局、仕事をする以上は、(良い意味で)打算的に動くのが正しい」となっていた。「良い意味で」は原稿にはなかった部分だ。しかし、一晩考えて、結局「良い意味で」をカットしてもらった。
人間関係を円滑にするには、悪い意味でも打算的に動く方が良い場合が多い。例えば、あなたが風邪を引いたとしよう。大事な仕事を控えている家族からは「わたしに風邪、うつさないでね」と言われるかもしれない。言われたあなたはきっと嫌な気持ちになるだろう。誰も好き好んで家族に風邪をうつしたいとは思わない。風邪を人にうつしたからといって治るわけでもない。
同じことをキャバクラ嬢と会話したと考えてほしい(念のため書いておくが、実際にこういう会話があったわけではなく、想像上の話だ)。「あら、風邪? 大変ね、早く家に帰って寝た方がいいわよ」と言われるかもしれない。翻訳すると意味は同じだ。「わたしに風邪、うつさないように早く帰ってね」となる。
しかし、キャバ嬢が違うのはこの先だ。「ここで風邪をこじらせたら、長いこと休まれる。そうしたら、うちにお金を落としてくれない」。打算があるからこそ笑顔で接客できるし、接客される方も気分がいいことが分かるだろう。
米国のレストランは、従業員がやたらと愛想がいい。料理の味はどうだ、ほかに欲しいものはないか、料理を人数分に取り分けようか、と親切だ。少々うるさいと思うときもあるが、まあ悪い感じはしない。しかし、これはチップを得るための手段である。その証拠にファストフード店ではこれほど愛想はよくない。スマイルは決してゼロ円ではない。金銭が介在した方が円滑な人間関係ができるのだ。
三谷幸喜監督の映画『有頂天ホテル』で、ホテルのマネージャが客に説教をするシーンがある。マネージャは客に言う。「お客様は家族と同じです。家族だからときには嫌なことを言うこともあります」と。お金が絡まない関係は、ときには嫌な思いをすることもある。だからこそ価値があるわけだが、それだけの覚悟は必要だ。
亡くなった父はよく「友だちを相手にもうけるな」と言っていた。仕事をしたときは、必ず相手の商品を大量に買ってもうけを相殺していたくらいだ。「打算のない関係」というのはそれくらいの覚悟が必要なのだと思う。