言葉は正確に
月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2007年4月号)をお求めください。もっと面白いはずです。なお、本文中の情報は原則として連載当時のものですのでご了承ください。
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若い人としゃべっていると、同じ言葉でも違う意味で使われることがあり戸惑う。仲間内だけの流行語を、目上の人に使ってしまう人もいる。また文法の乱れも気になる。今回は、こうした言葉にまつわる思いを書いてみたい。
●若者は常に乱れた言葉をしゃべる
若者の言葉の乱れは今に始まったことではない。平安時代、清少納言は「枕草子」で、若者の「ト抜き言葉」を嘆いた(*1)。「言わんとす(る)」を「言わむずる(言わんする)」という具合らしい。
今でいうなら「ラ抜き言葉」か。もっとも「ラ抜き」はすっかり定着しており、間違いを指摘しても何が問題なのか理解してもらえないようになった。国語学者の金田一春彦によると「ラ抜き」は日本語の自然な進化の過程なのだそうだ(*2)。
「ラ抜き」が問題になったのは1990年代前半のようだが、筆者の子どもの頃には既に登場していたように思う。これだけ長い年月をかけて普及しているのだから、単なる流行とは言えないだろう。清少納言が嘆いた「ト抜き言葉」も後に定着したそうである。
寿命が短いのは、誇張や強調の表現である。筆者の学生時代は「すごい」が流行した。本来「すごい」は「恐ろしい様」を示す言葉だ。
そのあとに登場した強調語は「超」。元々は、形容詞の意味を持つ名詞に付く接頭詞で「超大型」「超高速」のように使う。これを純粋な形容詞や形容動詞に適用したところが斬新だった。「超かわいい」などが典型で、今でもよく使われる。
最近の流行は「半端ない」だそうだ。さらに崩して「半端ねえ」から「パネぇ」にまで変化しているという。「半端なことではない」の変形らしいが、どこかの方言なのだろうか。
新しい表現や普通ではない使い方をした言葉は、それだけで印象が強い。強調するために次々新しい言葉が登場するのは必然である。しかし、改まった場所での使用は避けたい。馴れ馴れしい感じがするということもあるが、流行語を多用するのは「自分で言葉を考えていない」=「頭が悪い」と思われるからだ。
●慣用句は正確に
慣用句やことわざの誤用も目立つ。大げさな表現は、普通ではないことを示すために普通でない使い方をするわけだから、本来の意味から少々逸脱するのは当然である。仲間内なら使ってもいいだろう。しかし、誤用は、相手に誤解を与えることになり、コミュニケーションに支障が出る。
古いところでは「枯れ木も山の賑わい」。これは、年配者が自分を謙遜した言葉である。前回は「飲み会に上司を誘おう」と書いたが、間違っても「枯れ木も山の賑わいですから来てください」などと言ってはいけない。ただし、この誤用は相当古くからあるので、もしかしたら上司も間違って覚えているかもしれない(そんな上司は尊敬できないが)。
最近聞いたのは「なれの果て」だ。あるソフトウェアを改良して新しいビジネスに結びつけたプロジェクトの発表会での発言である。「わたしたちの成果を見たら、元のソフトウェアを開発した人も『これが我々のプログラムのなれの果てか』と思うでしょう」と結んだ。
「なれの果て」は「落ちぶれた結果」という意味なので、筆者はそのプロジェクトが最終的に失敗したのかと誤解しそうになった。
●理系・文系という言い訳
「理系だから、言葉の使い方や文章が下手だ」という人がいる。その考えは間違いだ。文系・理系という分類もいい加減なものだが、その話はやめておく。
あらゆる学問で、最も必要な技能は論理的な思考能力と、それを表現する技術である。理系とか文系は関係ない。
筆者は工学部だったので、学生時代は毎週実験レポートを書いた。レポートで最も重視されるのはデータではなく、データから得られた結論である。データが示す値が、どのような物理現象を表しており、それがどのような意味を持つのか。これを、いかにうまく文章にまとめるかが大事なことである。「文章の書けない理系学生」は、単なる劣等生であり、一般的な傾向ではない。
同じことは文系に対しても言える。文系であっても、レポートには客観的で論理的な記述が要求される。「文系だから」は、論理的な文章が書けない言い訳に使われることが多いが、そもそも論理学は文系の学問だ。
仕事をしていく上で、最も必要な能力は文章力である。SEは顧客の要求を聞き取り、それを仕様書として文章にまとめる。プログラムを書いているときは、必要なコメントを簡潔に記述しなければならない。
トラブルが発生したら、その状況を適切に説明しなければならないし、解決したら報告書が必要になる。日々のコミュニケーションも、最近ではほとんどが電子メールであり、簡潔で正確な文章を書くことが要求される。
●文章力を付けるには
では、論理的な文章を書けるようになるにはどうすればいいだろう。まずは読書である。音楽を聴かずに作曲家になる人はいない。小説を読まずに作家になる人もいない。同じように、文章を読まずに文章を書けるようにはならない。筆者の場合、学生時代は年間100冊程度読んでいた。残念ながら今はだいぶ落ちて10冊くらいだ。
どんな本を読めばいいか。基本的にはなんでも良い。ただ、作家にもよるが、小説は論理的な文章表現を修得するにはあまり向かないかもしれない。微妙な表現や、わざと論旨をぼかした表現を学ぶ必要はない。
筆者のお薦めは、良質のノンフィクションである。ただし、良質かどうかの見極めはけっこう難しい。とりあえず、たくさん読むことだ。ベストセラーになる本は良質なことが多いが、あまり期待しない方が良い。最近はタイトルが良ければ、内容が平均レベルでも売れる場合もあるからだ。
次に心がけたいのは、自分で文章を書くことである。最初のうちは短くてもいい。長い文書を書くのが苦手な場合は、箇条書きを利用すると良い。箇条書きの多いレポートは読みやすく、論旨を明確にしやすい。
内容は何でも構わないが、最初は事実だけを書いた方がいいだろう。やってみると分かるが、事実だけを書くのはけっこう難しい。事実と予想や想像、そして意見を明確に分離することは非常に重要である。筆者自身も必ずしも守れていない時がある。事実だけを書くことができれば、事実と意見を区別することも容易になるだろう。
書いた文章は他の人に読んでもらおう。発表の場はブログでもいいが、最初のうちはmixiのような仲間内のネットワークをお勧めする。読者は友人なので、すぐに感想を書いてくれる可能性が高いからだ。何かを学習するとき、フィードバックは常に重要である。ただし、仲間内にしか通じない表現は使わないように注意したい。
文章を書くことに慣れてきたら内容を考える。この時、5W1H(when:いつ、who:誰が、where:どこで、what:何を、why:なぜ、how:どんな風に)に注意する。特にhowとwhyを重点的に書いてみよう。いつどこで誰が何をしたかというのは、客観性が高く、データを見れば誰でもだいたい分かることが多い。しかし「なぜ」「どんな風に」というのは、書き手の解釈が含まれる。最も重要な部分であり、個性の出る点である。ただし主観であっても根拠としての事実を示すことを忘れないように。
流行語と慣用句の使用は避けよう。流行語には強い力がある。その力に負けないだけの自分の言葉を探すことは文章力を高める。実は慣用句にも同様の力がある。慣用句を避けることで、自分の文章について深く考える力が養われる。同時に、間違って覚えている慣用句を披露する失敗も防げる。一石二鳥だ(おっと、これは慣用句だ)。
そして最後に。文章力や論理的な思考能力は才能ではない。練習すれば身につく技能だ。イチローの恩師である仰木彬は、イチローに関してこう言ったという。
あれだけ練習すれば誰だって打てますよ(*3)。
(*1) http://ja.wikipedia.org/wiki/日本語の乱れ
(*2) http://ja.wikipedia.org/wiki/金田一春彦
(*3)そのあとに「まあ、普通の人はあれだけの練習ができないでしょうけどね」と続く。
「すごい」「超」の何がおかしいのか分からないという意見をいただいた。
「すごい」は本来「恐ろしい様」を示す。人を脅すときの「すごむ」や「すごみをきかせる」と同じ語源だ。「凄惨」という熟語にも含まれる。
ただし宇津保物語(平安時代中期)で既に「形容しがたいほど素晴らしい」の意味で使われていたようだから(「広辞苑」第5版)、間違いというわけではない。単に「大げさすぎるから多用するのはやめなさい」ということだったのだろう。
「超」は、本文で書いたように、形容詞の意味を持つ名詞(普通は漢語)に付く接頭詞だが「超人」や「超合金」のように純粋な名詞に付くこともある。
しかし、やまと言葉に付くことは少ないし、名詞以外の言葉に付くことはない。流行語としての「超」が斬新だった点は、やまと言葉の形容詞や形容動詞に適用したところだ。今でも会話ではよく使われる。もう一般化したと思ってよいだろう。
ついでに「半端ない」についていろいろ調べてみたら「半端ない」は「はしたない」「やるせない」などと同じで、文法的には形容詞なのだそうだ。そのため「半端ない」の逆は「半端ある」ではなく「半端なくない」だという。
ちなみに「はしたない」は「端(はした)がない」、つまり中途半端なこと(現在は「行儀が悪い」という意味で使う)。「やるせない」は「遣る瀬(船を着ける瀬)がない」、つまり「行き場がない」という意味である。いずれも、形容詞化しているので「はしたある」や「やるせある」にはならないし、「やるせぬ」にもならない。古賀政男作詞の「影を慕いて」では、藤山一郎が「月にやるせぬ我が思い」と歌うが、これも誤用である。
流行語の多くは、既存の言語体系からはみ出したものが多いが、文法の枠組みから完全に外れるものは少ない。「半端ない」も、基本的な部分では日本語文法に従っているということである。「言葉の乱れ」といっても、所詮は基本文法の範囲内でしかない。若者よ、人と違う表現をしたければ、もっと斬新な言葉を発明してみなさい。
なお、イチローのエピソードは、Wikipediaの「天才」の項目に掲載されていたが、その後削除された。「個別の天才のエピソードを挙げていたらきりがない」からだそうだ。もっともである。