Windows Serverを中心に、ITプロ向け教育コースを担当

ホワイトカラー・エグゼンプション

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 月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2007年2月号)をお求めください。もっと面白いはずです。なお、本文中の情報は原則として連載当時のものですのでご了承ください。

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 多様化した労働形態に追従するため、労働法が徐々に変わってきている。しかも、変更内容は労働者に不利な項目が目立つ。

 中でも、ITエンジニアの労働形態に直接影響を与えそうなのが「ホワイトカラー・エグゼンプション」である。今月は「ホワイトカラー・エグゼンプション」が実施されても生き残る方法を考えてみたい。

●「ホワイトカラー・エグゼンプション」とは

 「ホワイトカラー・エグゼンプション」とは、1938年から米国で採用されている規則で「一定の条件を満たしたホワイトカラーの労働時間は、法規制の対象から除外(エグゼンプション)する」というものだ。一定以上の地位にいるホワイトカラーは、自分の労働量を自分でコントロールできるというのがその根拠である。

 そもそも労働法は、産業革命の頃、労働者を保護するために、資本家への規制として生まれた。当時想定していたのは主として工場労働者である。そのため、ホワイトカラーのような知的労働者には不適切なルールもある。こうしたことから、今までにも多くの規制緩和が行われてきた。フレックスタイム制と裁量労働制がその代表である。

 フレックスタイム制は、勤務時刻を労働者が自分でコントロールできるようにするための制度だ。ただし、フレックスタイム制を導入しても総労働時間は労働法の規制を受ける。

 一方、裁量労働制は、労働時間も自分でコントロールできる。裁量労働制では「みなし労働時間」を定め、実際の労働時間にかかわらず、その時間働いたとみなす。会社が勤務時間についての具体的な指示をすることは禁止される。

 裁量労働制は「平均的な能力の社員がみなし労働時間だけ働いたときの成果」に対して賃金が支払われる。能力が高ければ、実際の労働時間が短くなるし、低ければ長くなる。しかし、実際には、人件費を節約する目的で、みなし労働時間を短く設定することも多いという。

 「みなし労働時間」は労使協定で決めるが、IT業界では労組がほとんど機能していない企業が多い。経営者が提案した時間をそのまま受け入れることも多いようだ。

 みなし労働時間を大きく超える残業があった場合、会社には代休付与の義務があるし、休日出勤や深夜残業の超過勤務手当も必要である。しかし、これも守られているかどうかはかなり怪しい。

 「ホワイトカラー・エグゼンプション」は「自律的労働時間制度」とも呼ばれる。他の制度と違い、そもそも勤務時間の概念がない。完全な成果主義である。裁量労働制と異なり、休日出勤や深夜残業手当もない。

 容易に想像できるように、この制度は単なる賃下げの口実に使われる可能性が高い。何らかの法的な歯止めはできるだろうが、現在の裁量労働制の運用を見ているとほとんど期待できない。

 厚生労働省では、自律的労働時間制度対象者の要件として、(1)労働時間では成果を適切に評価できない仕事をしている、(2)重要な権限と責任を相当程度伴う地位にある、(3)年収が相当程度高い(1000万円程度)などを挙げている。

 しかし、仕事の内容は年収で決まるものではないだろうし、他の2つの条件は極めてあいまいだ。経団連は年収400万円以上を対象にしたいとしているが、経済同友会は自律的労働時間制度そのものに反対と、産業界でも意見が分かれている。

●自律的労働時間制度を生かすには

 筆者は、前にホワイトカラーの勤務時間概念のあいまいさを指摘した(「お持ち帰り残業」)。そして「公私混同型」の勤務形態を提案した。

 しかし、それには2つの条件がある。まず、自分で仕事の量をコントロールできること。次に、会社が完全な自由を認めてくれることである。

 さて、現実にそんなことができるだろうか。幸い、筆者はこの2つを実現できた。いくつかの幸運もあったので、誰にでも実行できるわけではないが、紹介しておこう。

 筆者が公私混同型スタイルを実践しようと思ったのは、会社ができたばかりで知名度も低かった頃である。広告を出す予算もなかった。そもそも広告で信頼が得られる時代でもない。

 そんなとき、知人からの紹介でWindows Server World誌(当時はWindows NT World)から、原稿の依頼があった。筆者は上司に掛け合い、記事に社名を出してもらうことを条件に、勤務時間外に会社の機材を使うことを許可してもらった。

 勤務時間外といっても、既にフレックスタイム制が導入されていたので、コアタイム(筆者の会社は午後3時)以降なら勤務時間外とみなせる。

 当時のWindows NT Worldは著者の所属組織を書かない方針だったのだが、これも当時の編集長と掛け合って記事末尾に社名を入れてもらった。

 幸い、その記事は好評で、続けていくつかの記事原稿の依頼があった。原稿を書くのは自分の勉強にもなるので、技術知識も増えていき、ますます良い記事が書けるようになった。マタイの法則(「ITエンジニアのキャリアパス」)である。

 「社名を入れる代わりに、会社の機材を使っても良い」「本業に悪影響を与えない」この2つの原則は今でも不文律として生きている。

 自分の書いた記事が増えると、社外で認められるようになり、結果として社内での存在感が増す。もちろん「原稿書いている暇があったら、会社の仕事をしろ」などと言われないように注意した。

 幸い、本業であるITトレーナと技術記事の執筆は極めて近い関係にあった。記事を書くための勉強は本業でも活かせたし、その逆もあった。特集記事の内容を、ほぼそのまま教育コース製品にしたこともある。実に効率のいい仕事であった。

 原稿を多く書いていると、作業時間の見積もりも正確になってくる。その結果、仕事の量も自分でコントロールできるようになった。できない仕事は、最初から「できない」と断るからだ。

 多くの人は与えられた仕事を断れないかもしれない。しかし、社内での地位を築いておけばそれも可能だ。

 こうして、自分の仕事量をコントロールし、自分の地位向上ともに、社内での自由も獲得した。マネージャではない、一介のエンジニア(*)でもここまでできる。

 重要なことは、他の誰にも負けない高い能力を身につけることである。もう少し正確に言うと、誰にも負けない能力を持っていると経営者に思わせることである。

 「自己実現」といった実体のないものに一所懸命になる暇はない。生き残るためには勉強するしかない。

●転職の機会は積極的に利用しよう

 資本制社会の人間は、生産手段を私有しない「プロレタリアート」と、産業資本家である「ブルジョアジー」に大別される。しかし、ITエンジニアなどの知的労働者(ホワイトカラー)はいずれにも属さない。「プチブル(プチブルジョア)」の蔑称もある。

 ホワイトカラーにとっての「資本」とは何か。それはもちろん「知的能力」である。工場労働者に代表されるプロレタリアートは、生産手段を所有していないため、法律で身分を保障してもらい、集団で交渉する権利が認められた。しかし、知的能力という資本を持った労働者は、その気になれば資本家と対等な交渉を行うことも不可能ではない。

 理不尽な要求に対抗する最終手段は転職である。何かから逃げるための転職は、一般的にはおすすめしない。しかし、別の会社の方が自分の能力を伸ばせると思えば移ればよい。自分の能力が十分高ければ、会社は引き留めてくれるだろう。運が良ければ、こちらの条件を受け入れてくれるかもしれない。ただし、引き留められない可能性もあるので事前の準備は必要だ。転職先を決めてから交渉した場合、慰留を受け入れると転職先に迷惑がかかる。かといって、転職先を決める前に交渉した場合、失業してしまう恐れがある。

 人材会社、いわゆるヘッドハンターも積極的に活用すればいい。人材会社の担当者と相談することで、自分の知的能力つまり資本が、どれくらいの価値があるのかを客観的に算定できる。これにより、今の会社での扱いが正当なものかどうかも判断できる。評価が不当に低ければ転職すれば良い。自分に欠けているスキルを判断するにも他者の目があった方がよい。

 ただし、こうした相談を嫌がる人材会社もあるようだ。担当者にもよるらしいので、相性のいい人を見つけるのに時間がかかってしまうかもしれない。人材会社は、人材を斡旋した会社からの手数料で利益を得ている。相談だけして転職しない場合は、人材会社には一銭も入らないのでやむを得ない。

 Web上でのフォーラムを使うのも1つの方法だ。例えば、アットマーク・アイティの「自分戦略研究所」は、キャリアパスの作り方や転職テクニックの他、電子掲示板でのディスカッションも盛んである。匿名だが、IDが固定されているので、あまり無責任な回答はないようだ。

●エンジニア如何に生くべきか

 資本家は、資本を運用することでさらに資本を増やす。エンジニアは、自分の知的能力を活用することで、さらに高い能力を身につける。知的能力は資本である。資本が資本を生むように、知識は知識を生む。知識はエンジニアの価値を高め、経営者と渡り合う武器となる。頑張ってIT業界を生き抜いて欲しい。

 「知は力」フランシス・ベーコン

 (*)筆者は2006年4月末から取締役になっているが、その前は平社員である。グループマネージャをしていた時期もあるが、長くはなかった。

■□■Web版のためのあとがき■□■

 今回の記事を書いて「プチブル(プチ・ブルジョア)」の本当の意味を初めて知った。

 マルクス主義の用語では、ブルジョアとは資本家を意味する。対応する語は「プロレタリアート」で、資本を持たない労働者階級のことである。

 プチブルは、元々自作農家や、小商店主、職人などを指したらしい。小規模ながらも生産手段を所有している階級である。その後、学生や、ホワイトカラー、専門職も含むようになったという。

 学生は無産階級(プロレタリアートの訳語)だと思うのだが、親の庇護にあるという意味でプロレタリアートではないのだろう。ホワイトカラーや専門職が「知識」という資本を持っていることは本文にも書いたとおりである。

 一般に「プチブル」というと「日和見主義」の蔑称である。プチブルは、大資本も持たないし、完全な無産階級でもないので、政治的立場が浮遊しやすいことに由来しているらしい。

 学生運動が盛んだった1950年代から1970年代まで、学生運動家は「プチブル」と呼ばれるのを非常に嫌った。しかし「プチ・ブルジョア」が単に「小金持ち」位の意味だと思ったら大間違いである。

 さて、ソビエト崩壊以後、いや、その前のソビエト計画経済の失敗以降、マルクス主義は輝きを失ったが、今でも勉強する価値のある理論であることは間違いない。

 特に、資本主義について考察した部分は今でも高く評価されている。問題は「資本主義の次のステップは、社会主義・共産主義であり、それを実現するには革命しかない」という下りである。

 ただし、マルクスは「共産主義革命は成熟した資本主義のあとに起きる」としていた。ソビエトも中国も、資本主義が成熟する前に革命が起きているので、マルクスが想定した姿ではないとする説も根強い。

 ところで、「ナニワ金融道」などで有名なマンガ家の故青木雄二氏は、熱心なマルクス主義者だったらしい。愛読書は「資本論」とプロフィールに書いてあったくらいだ。

 彼のエッセイには「資本主義社会で生き抜くには、資本家になるしかない」「アパートを買うときは一棟買え。資本主義社会で生き残れるのは、資産がある人間だけだ」などと書いていたが、彼一流の逆説だったようだ。

 アパートを1棟買うほどの資本を持つのは難しいが、経営者と渡り合えるような知的資本の蓄積は不可能ではない。頑張って欲しい。

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