「生活イチバン、ITニバン」という視点で、自分なりのITを追及するフリーエンジニアです。ストレスを減らすIT、心身ともにラクチンにしてくれるITとはどんなものかを考えていきます。

散文的なコミュニケーションからの脱却

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 どうも時代は散文的な方向に進んでいるように思えて仕方ない。ここでいう散文的とは、味気ないというか、風情が感じられないという意味だ。特に、人と人とのコミュニケーションに関して、そう感じることが多い。

■24時間つながっていられますか?

 最近は「きずな」とか「つながり」といった類いのキーワードがやたらと連呼されている。その言葉自体は、美しいものだ。

 しかし注意深く観察すると、人が「きずな」という言葉を発するとき、それは、いつでもどこでもつながっている、あたかも携帯キャリアの通信品質と同等のサービスを相手に要求しているように聞こえてしまう。昔のリゲインのCMのように、「24時間つながっていられますか?」と問いかけられているようだ。

 たとえばLINEで既読が付くと相手に可及的速やかな返信を求めてしまうようなとき、我々は相手にそれを要求しているのだ。相手は自分の都合に合わせて受け答えしてくれるWebサービスではない。相手を慮る気持ちがなければ、コミュニケーションはこのように散文的なものになってしまう。

■散文的なプロジェクト

 我々エンジニアも、プロジェクトを進める上で散文的なコミュニケーションを重ねていないだろうか。散文的なミーティング、散文的な進捗報告、散文的なドキュメント。

 プロジェクトに味気や風情など無用と思われるかも知れないが、ここで問題にしているのは、先ほども書いたように、「相手を慮る気持ち」だ。

 何もドラマチックな進捗報告をしろというわけではない。相手が知りたいことは何かを意識するということだ。ドキュメントにしても、読む人に配慮したものは、たとえ箇条書きであっても読みやすい。

 コミュニケーションの品質とはスピードではない。もちろん、スピードが求められることもある。しかしその場合でも中身を練るにあたっては、伝えたい相手のことを忘れてはならない。相手は生身の人間なのだから。それを忘れると、結局はあとで余計な時間が掛かることになるだろう。

Comment(2)

コメント

アラファイブ

自分は、技術的な事には、(報道機関の人間が好きそうな)ストーリーを持ち込むとしくじる様に思いますが。

「緑色に光る細胞を見つけたけど違った。」だけなら大騒ぎにはならなかったはずで、特に相手(読み手)の心に染み入るストーリーなんて、大多数の場合、後に禍根を残すはずです。

大体、このエンジニアリングライフ自体、散文的に書いても載せてもらえる場な訳で、だからこそ、技術的話題にフィットしているとも言えるように思います。

onoT

アラファイブさんがおっしゃっているのは、「人におもねる」ということですよね。
私がここで書いているのは「人をおもんばかる」ということです。
おもねるのはもちろん私もダメだと思います。ただ、おもんばかる態度は絶対に必要なのに、足りていないと感じるのですが、その点は、アラファイブさんとしてはいかがかお考えでしょう?

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