「生活イチバン、ITニバン」という視点で、自分なりのITを追及するフリーエンジニアです。ストレスを減らすIT、心身ともにラクチンにしてくれるITとはどんなものかを考えていきます。

記憶の素材

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 人はどこまで自分の記憶を辿ることができるのだろう。

 私の一番古い記憶は、幼稚園に入る直前のことだから3歳か4歳のことだったと思う。手作りのカバンを母親から貰ってはしゃいでいたのを、今でも朧げながら覚えている。厚手の布製のカバンで、ランドセルのように背負えるタイプだった。

 しかし、それは本当に私の記憶なのだろうか。それとも、もっと後になって、当時のアルバムを見たり親の話を繰り返し聞いたりする中で単なる知識として刷り込まれたものにすぎないのだろうか。よしんば自分の記憶だったとしても、それが当時の事実をそのまま正確に記録したものと言い切れるものでもない。

 そう。記憶というものは、事実のスナップショットではない。我々が過去を思い出すとき、そこにはなんらかのフィルターが掛かっているものだ。

 では、なぜフィルターが掛かってしまうのだろうか。それは、客観的な事実ではなく、自分にとって都合の良い真実を求めたがるという、多くの人間に共通する性質によるものだ。だから、あまり客観的な事実が外部記憶にたくさん蓄積されていくと、不都合なことが発生することになる。

 例えば、「忘れられる権利」という概念がある。これは、他人から見えなくするために、自分の情報を、巨大な外部記憶装置であるネット上から消し去る権利のことだ。しかしそれは、裏を返せば自分自身が「忘れる権利」ということもできるだろう。

 真実の醸成には、事実の中から記憶に残したい瞬間を切り出して、それを刻の流れという名のエキスに浸し、化学反応が起こるのを待たなければならない。SNSに投稿される旅先の美しい風景や楽しげなスナップは、それ自体すでに事実を加工したものであり、いわば真実として記憶しておきたい素材と言える。刻が、それらの素材をより一層輝かせてくれることだろう。

 ところが、日本の夏に大量発生するといわれている「バカッター」たちは、事実をそのままネット上に垂れ流してしまうという特異な生態で知られている。炎上してしまったら、もう後の祭だ。彼らにも忘れられる権利はあるかも知れない。しかし現実問題として、彼ら自身、自分がやってしまったことを忘れ去ることは非常に難しいだろう。「若気の至り」で済ませるには、あまりにも早く、あまりにも広く拡散されすぎてしまう。それが良くも悪くもネットの特徴なのだ。

 今年も、夏は、もうすぐそこだ。外部記憶の使い方には、十分注意しようではないか。

Comment(1)

コメント

仲澤@失業者

まぁ今どきの子ならちゃんと教えてもらっているのでしょうが、
 1.法の上では写真はファクト。
 2.SNSは事実上国際放送と同等かそれ以上。
 3.電磁的記録は一切劣化しない。
以上の事実からSNSに写真を転送するということは、
永久に劣化しない事実を世界中に晒す行為であるということですね。
その不都合な事実を超える利益があるならやむをえませんが、
理解に苦しみます(じじいになっただけかもしれませんが)。
個人的には恐ろしくてまったく使う気になりません(見るだけ)。

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