つれづれなるままに、ひぐらしスマホに向かひて
■枕詞
今回は、コラムというより、単なる雑文なので仕事の合間に息抜きとして軽く読み流してもらえると幸いだ。「『今回は』だって? それじゃぁ今までのはコラムのつもりだったのか?」というツッコミは、返す言葉が見つからないので、どうかご勘弁いただきたい。
■徒然草
以前から、スマホの形って何かに似ているんだよなぁと思っていたが、ようやく何だか分かった。そう、硯(すずり)だ。それ以来「ひぐらしスマホに向かひて」というフレーズが頭から離れない。
そして、街中や電車の中でスマホに向かうヒトがみんな吉田兼好の弟子に見えてしまって、ついつい口元がほころんでしまう今日この頃なのだ。みんな、心に浮かぶよしなしごとを、そこはかとなく書き付くって、あやしうこそ物狂おしくなっているのだろうなぁ。 いやいや、分かる。私だってそうなのだ。
■枕草子
そうかと思えば、清少納言の弟子も多い。まぁ、これはわたしの個人的な感覚なのだが、枕草子は冒頭の「春はあけぼの」を筆頭に、とてもビジュアルなイマジネーションを刺激される。風景画っぽかったり、スナップショットっぽかったりいろいろだが、情景が目に浮かぶような写実性を感じてしまうのだ。
これが、春夏秋冬、朝昼晩、日々アップされるステキな写真とかぶるのだ。美しい夕日を思わずスマホで撮るヒトは、「秋はやっぱ、夕暮れよねぇ!」と書いた清少納言と同じ感動を体験しているに違いない。
■方丈記
そして当然、鴨長明の弟子だっている。これはどちらかというと、理屈っぽいヒトだろうか。わたしはコラムのネタ起こしから下書きまでをスマホで書くことが多いのだが、そのようなときには長明の弟子となっているのかもしれない。
スマホは、入力デバイスとしてはあまり使いやすくないという評価をよく聞く。しかし個人的には手書きよりもよほど書きやすいと感じている。揺れの激しいバスや電車でも、スマホで書けば後で読めないような字になることはない。寝転がっていても、たとえ木にぶら下がっていようとも、片手さえ空いていれば書くことができる。
■奥の細道
ここまで日本三大随筆の著者の弟子を見てきたが、まだ、どうしても取り上げずには終われないものが残っている。それは、旅先で欠かさずチェックインして感動を伝えてくれる松尾芭蕉の弟子たちだ。ある意味、芭蕉の弟子たちの存在はヘタな広告よりもよっぽど効果があるのではないだろうか。
■土佐日記
そうそう、紀貫之を忘れるところだった。何かと理由をつけては飲み会を開いて飲んだくれ、その情景をつぶやくという日本人の伝統の原点は彼にまで遡ることができる。ひょっとしたら、貫之の弟子が日本には一番多いかも知れない(性別詐称の弟子も、ひょっとしたら結構いる?)。
■結詞
硯もスマホも、「す」で始まる3文字だというだけではなく、どちらも不特定多数のヒトに自分の考えや気持ちを伝えるための記録用の道具という類似性がある。
現代の硯ともいえるスマホにひぐらし向かって、自分たちが何をやっているのか、たまにはこうやって先人たちの作品のタイプと比べてみるのも、いとをかし、ではないだろうか。