答えの導き方
2002年6月5日の「@IT通信」に掲載したコラムを紹介します。ゆとり教育が残したものは何だったのだろうか。
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先週、わたしの子どもが通っている絵画のアトリエの先生が、こんなことをいっていました。
「いまの子どもたちは、方法や技法の習得から学び始めて答えに至ろうとしたり、あるいは答えから始めて、答えを得るための方法を探そうとしている」というのです。
子どもたちといっても、結局は親や社会がそのように教えているのであり、もっといえば受験のためにそのようになってしまったということなのでしょう。
しかし、よく考えてみると子どもたちばかりではなく、これまで自分自身がそうではなかったかと、はっとさせられました。
わたしも子どものころから、何の疑問を抱くこともなく決まりごとや社会的評価の定まったことを受け入れてきました。最近になってやっと、子どもとのかかわりをとおして、「なぜ」とか「どうして」ということを、自分に問いかけるように成長(?)できたと感じているところです。
職場でも、何の疑問も抱かずに仕事をしていると、新たな発想や改善をしていこうというマインドを持つことが、非常に難しくなります。
わたしの業務でいうと、商法改正や会計基準の変更があった場合、「勉強して対処しなくては」ということになりますが、単純に表面上の変更点を学習し覚えたところで、本質的な理解をしているとはいえません。法律や制度が変わった社会的背景や意味、理念を押さえておかないことには、イレギュラーな事柄が起こったときによい対応が取れません。
答えを導くといっても、ただ単にアンサーが得られればそれで良しとするのではなく、自分なりのソリューションを生み出す力――その力こそが大切なのです。
「学校が週休2日で子供の学力が心配だ」などという前に果たして自分が豊かな感性や想像力を生み出せる発想を持っているか、自問してみることも大切ではないでしょうか。
アトリエの先生いわく、「お父さんの仕事も、技や方法だけに頼っていると、そのうち行き詰まってしまいますよ」と脅かされてしまいました。
なんだか年を取るとともに、自分の発想の乏しさが浮き彫りにされてくるようで、肩を落とす場合もあります。とはいえ、新しい視点や異なる発想で考える癖を付けることによって、いままでと違った答えが導き出せることもあるのではないかと感じます。