小説「わたしのみらい」―36歳の転職
あるエンジニアの歩み方を小説として連載しています。前回の物語はこちらです。
◇
タケシは、駅の方向へゆっくりと歩き出した。
(そういえば、本屋に来るのは久しぶりだな。いつぶりだろう?)
最近、本を買うといえばもっぱらネット書店だった。欲しい本があれば、仕事中にでもその場で買うことができるし、わざわざ書店に出向く必要がなかったのだ。
(時間はたっぷりあるし、転職情報誌以外の本も何か読んでみるか……)
いつもならコンピュータの情報誌か技術書しか読まない。だが、今日は冷え切った心の温度を少しでも上げたい気分だった。そうかといって、マンガを読んで笑い飛ばそうという気分ではない。そうなると、何を読めばいいのだろう? 自己啓発の本だろうか?
普段のタケシなら、自己啓発書にはまず手を出さない。宗教じみていたり、楽して成功するような話だったり、なんとなく胡散臭い感じが好きじゃなかった。だが、今日はそこに救いを求めようとしている自分に気がついたとき、自分の心がどんな状況にあるのか、なんとなく分かった気がした。意外と傷ついているようだ。
天井からぶら下がる書店の案内を頼りにエスカレータに乗り込んむ。棚に並ぶ本に目を向けた。「すべて必然…」というタイトルや、「たった一瞬で……」「奇跡の……」「潜在意識を……」というようなタイトルの本がところ狭しと並んでいる。
いつもなら、
(この転籍も必然?その根拠は?)
(楽して成功できるなら、もっと多くの人が成功しているはずじゃないか……)
というような思いが浮かぶ。少しひねくれているとは自分でもわかっているが、そう思ってしまうのだから仕方がない。だが今日は、頭ではそう考えつつも、傷ついた心は今の状況をなんとか変えたいと、それらの情報を求めているようだった。
(そういえばこの間、成功した経営者がテレビで、「必要な情報は必要なタイミングでやって来る。迷ったときは、なんとなく気になった本を手にとって、ページを適当に開いてみるとそこに答えが書いてあることが多い」なんて言っていたな)
普段なら、論理的に説明できないそんな話は真っ先に否定するのだが、今日は素直に受け入れてみようと思った。そこで、なんとなく気になった本を手に取り、何が書かれているのかとドキドキしながら、ゆっくりとページを開いてみた。
「あなたの思考がすべてを引き寄せている」
という文字が、なぜか目に飛び込んできた。
(何? これが今のオレに必要な情報?オレが、自分で転籍を引き寄せたとでも言うのか? 事の発端は部長だぞ! アホくさい。やっぱり、こんな非論理的なことをあてにするんじゃなかった)
タケシは、怒りに任せて本を閉じると「バンッ」という大きな音がした。
(やっぱり、オレには自己啓発書はあまり向いていないようだな)
その場から立ち去ろうと、視線を棚から通路側に向けようとしたとき、一冊の本が目に入った。この本がなぜ気になるのだろう? そういえば、最近流行りの経済評論家がテレビで紹介していた本だ。
(あの人が紹介しているのなら、読んでみるか……)
目次も開かぬまま手に取り、自己啓発書のコーナーを後にした。
◇
書店の隣にあるコーヒーショップに入る。鼻腔から肺に流れるコーヒーの香りは、なんとなく心を落ちつかせてくれる。
ラージサイズのホットコーヒーを注文し、一番奥の人気が少ない席に座る。書店特有の薄っぺらな包装紙から今買ってきたばかりの自己啓発書と、レジの近くで手にした転職情報誌を無造作に取り出すと、1冊は机に上に置き、もう1冊はカバンとともに隣の空いている席に置いた。
「35歳からの転職、あなたならどうする?」
転職情報誌には、35歳からの転職が特集で組まれていた。35歳からの転職はこの不景気で厳しさを増しているらしい。だが、即戦力となるのなら、決して難しいわけではないようだ。求められるのは専門スキルとマネジメント力だという。専門スキルの証明として、職務経歴や資格が重要だとのこと。チームをまとめたことはないが、自分の仕事を納期までに仕上げるマネジメント力には自信がある。
(職務経歴には自信があるけど、いまさら資格ねぇ)
資格といえば、タケシが嫌っているものの1つだ。
(プログラムは資格があっても組めるわけじゃない。どんな資格を持っているかじゃなくて、何ができるかが大切なんだ)
実際、タケシは、初歩的な情報処理の資格しか持っていない。これも、自分から資格を取ろうと思ったわけではなく、会社の目標管理の一環で嫌々取った資格だ。やらされ感たっぷりで資格を取っても、頭の中にはあまり残らないことを体験上知っている。それ以来、資格は取っていない。
ここ数年は目標管理シートに「資格を取る」とは書くが、評価の時期になると鉛筆を舐めてごまかすのが恒例だった。資格などなくてもクライアントに評価されてきたし、技術力にも自信がある。
だが、一方で、
(ひょっとしたら、資格を取ろうとしなかったことが転籍の候補に挙がった理由なのかな? いや、他のみんなも、目標管理だからって強制的に資格を取らされるのは嫌だって言っていたし、資格をもっていないのはオレだけじゃないもんな)
そんな思いが、一瞬タケシの頭の中をよぎり、消えた。
そのときだった。
「あれ? 近藤君?」
タケシは、耳から入ってきた、どこかで聞き覚えのある声のほうに視線を傾けた。
◇
これは物語です。話の展開上、特定の個人、企業、商品名等を連想させる表現が場合によってはあるかもしれません。いずれの場合においても、それらを批判、非難、中傷するものではございません。主人公が成長する過程で起こりうる思考や体験を再現するものとして、ご理解いただければ幸いです。
コメント
こんばんは~。僕は以前、勤務中、上司にスタバでリラックスしているところがバレた人ですw その日、関西風にどやされましたが。
僕が読むなら、自己啓発書ではなく、内橋克人さんかなにかの経済本ですねえ。次いで、それこそハンドルネームにあるように、新渡戸稲造さんの修身本ですね。コンサルタントは、ええ加減なことを言う人も中にはいて「こうすれば成功する!」みたいなことですね。これは危ない心理状態ですね。
あれから、聞き覚えのある声がスタバでした時は、他人のふりをして便所へ駆け込むことにしましたw
では~。