あなたの体験談を元に、前向きにおしゃべりしませんか?

小説「わたしのみらい」―不安と期待のあいだで

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 あるエンジニアの歩み方を小説として連載しています。初回の物語はこちら、前回の物語はこちらです。

 いつもなら子供と一緒に入浴するのだが、今日は1人で入ることにした。

 ぬるめのお湯に肩までゆっくりとつかる。天井からぶら下がる明かりをボンヤリと眺めていると、起業への期待を抱く自分と、不安を抱く自分が、言葉を交わし始めた。

 (独立?そんなことできるのか?)

 (できるさ。ここは一旗あげてみようと思っているんだ)

 (でも、奥さんに反対されたらどうする?)

 (恵子なら、きっと分かってくれるよ)

 (お父さんとお母さんは、絶対に反対すると思うよ)

 (う~ん、それはそうかもしれないな)

 (うまくいくはずなんかないよ。こんな不景気の時に)

 (ピンチはチャンスと言うじゃないか)

 (あんな、神谷さんの言うことに惑わされちゃダメだよ)

 (でも、「出会いは必然」っていうじゃないか)

 (プログラムを作るって言ったって、どうやって仕事を探すの?)

 (それは……まだ考えていないな)

 (お前は今まで、会社の看板があるから仕事ができていたんだよ。独立なんて絶対に無理だよ)

 (ボクのスキルがあれば、いけると思う)

 (仕事を辞めてからの生活費は大丈夫?)

 (う~ん、それは……そうだね。プラス思考でなんとかなるさ)

 (家族がいるのに、今からそんな冒険をして大丈夫なの?)

 (不安な世の中だからこそ、自分で稼ぐ力を身につけておきたいんだ)

 (みんなそうやって楽観的に独立して、去っていくんだよ。現実を見ろよ、現実を……)

 2人の会話は続く。頭のてっぺんで考えると、不安はまるで次々と押し寄せる波のように浮かんでくる。

 (こんな不景気なときに、本当に独立などできるのだろうか?・・・)

 頭は独立を否定する。だが、体は、もう答えを知っているようだった。

 浴槽から出て、シャワーを勢いよくひねる。

 (このまま、考えていても仕方がない。え~い、やってみるか!)

 シャワーの温度を熱くする。冷たく、不安な気持ちを熱いお湯で洗い流した。

 頭をバスタオルで拭きながらリビングに戻る。食事の後片付けをしている恵子の目を盗み、神谷の携帯にメールを送った。

 「近藤です。先日はありがとうございました。あれからいろいろと考えました。不安はたくさんありますが、今回をいい機会だと捉えて、起業する方向で動いてみようと思います。準備をするにあたり、何から始めたらいいでしょうか? アドバイスをいただけたらうれしいです。」

 (本当に、これでいいのだろうか?)

 先ほどの決意が、もう、揺らぎ始めている。送信ボタンとキャンセルボタンを押すか、迷う。小さい画面には、「送信しました」という文字が映し出されていた。

 しばらくすると、携帯のメール受信音が鳴った。

 「おめでとう。近藤君の勇気ある決断を、心から祝福するよ。起業のアドバイスだね。メールより電話のほうがいろいろと伝わると思うから、明日の昼休みに電話くれるかな?」

 明日電話すると返信した。

 寝室に向かう。

 タケシは妻の恵子と保育園に通うヒロトと3人暮らし。毎晩、ヒロトを寝かしつけるために、3人一緒に布団に入る。恵子は、ヒロトに昔話を聞かせている。いつもなら、それに釣られてタケシもウトウト始まるのだが、今夜は、なかなか目が閉じようとしてくれない。

 寝付けぬままボンヤリと布団に入っていると、タケシの意思とは関係なく、向こう側から不安が襲ってくる。なるべく頭の中を空っぽにして、考えないようにしようと思えば思うほど、不安は大きくなった。それを振り払うように、背中を丸めて頭の上から布団をかぶり、悪魔のささやきが聞こえぬよう、指を耳に突っ込んだ。

 しばらくして布団から顔を出すと、恵子の昔話は、2人の寝息に変わっていた。

 (この2人を、路頭に迷わすわけには絶対にいかない……)

 布団になど、入っていられなかった。2人を起こさぬように体をそっと起こすと、タケシは寝室を後にした。とりあえず、何かを始めなければ不安で仕方がない。リビングにある通勤カバンの中からペンと手帳を取り出し、起業に必要なことを書き出してみることにした。

 (一体、何から手をつけたらいいのだろう? 当面の生活費の確保と、仕事の確保と、それから……)

 当たり前のことしか浮かんでこない。

 数年前の起業ブームのときに、あこがれで買ったビジネス書があったことを思い出した。本棚からそれを取り出し。適当にページをめくる。「ビジョン」「ミッション」「事業計画」「ビジネスモデル」といった、どこかで聞いたことがある言葉が、ところ狭しと並んでいる。

 「ビジョン」「こころざし」「社会的意義」……今までだって何度も聞いたことがあるし、それはとても大切なことだと、頭ではわかっている。「お客様のために」「社会が良くなるように」――格好いい言葉を並べることはできるが、今の、不安だらけのタケシにとって、「ビジョン」のような前向きな気持ちは浮かんでこない。それらは絵に描いた餅のようで、全然リアリティがなく、気持ちに響くものが何もない。

 (オレにとってのビジョンってなんだろう?ビジョンを持てないオレって、ダメなヤツなんだろうか? ビジネスモデル? 儲ける仕組み? ……全然わからないや。こんなことで、本当に大丈夫なのかな? オレ……。)

 時間をかけても、手帳は白紙のままだった。

 (とりあえず、簿記でも勉強して、お金の流れでも知っておいたほうがいいかな?)

 ノートパソコンの電源を入れ、オンライン書店で、レビューの評価が高い簿記の本を注文した。

 会社の昼休みに、神谷に電話をした。

 「近藤です」

 「あぁ、近藤君?起業、よく決心したね。応援するよ。今の心境は?」

 「昨日、『よしっ』と決めたときは意気揚々でしたが、一晩たったら、すごく不安になってきました」

 「そうだろうね。僕たちは、今まで経験がないところに足を踏み入れようとするときに不安になる。例えば、今まで入ったことのレストランに入るときだって、『この店、おいしいのかな?』と不安になり、迷うぐらいだ。

 これから大きな一歩を踏み出そうとしているんだから不安に思うのは当然のこと。みんな、最初は不安なんだ。でも、その不安は、近藤君を危険から守るための安全装置だと考えて欲しい。多くの人は、この安全装置が働くと、そこでとどまってしまう。だから、決断しただけでもすごい勇気なんだ。その勇気がある自分を褒めてあげて欲しい。」

 神谷の言葉には、いつも勇気付けられる。

 「さて、早速だけど、起業するためにはやるべきことがいくつかある。今、メモできるかな?」

 携帯電話を左側の肩に挟み、右手にペンを持つと、タケシは神谷の声に耳を傾けた。

 「さて、起業するうえで、まず最初にやるべきことはなんだと思う?」

 「そうですね、ビジョンやミッション、事業計画やビジネスモデルを決めることですかね?」

 昨日、ビジネス書で読んだ言葉をそれっぽく並べてみる。

 「そうだね。それも大切なことだね。でも、今の近藤君にビジョンが浮かんでくる? 多分、不安が一杯でそれどころじゃないんじゃないかな? もちろん、ビジョンを持つことは大切なことだけど、それほど慌てなくても、仕事におけるビジョンは、時期が来たらちゃんと浮かんでくるから大丈夫。

 また、事業計画書やビジネスモデルも確かに大切だけど、近藤君の場合は、仕事を1人で始めるんだよね? 1人なら小回りも利くし、事業計画書を銀行に出して融資を受けるわけではないから、近藤君がどうなりたいのかをはっきりさせて、「今、ここ」で、できることは何かを考え、実際にいろいろと試しながら考えることもできる。

 それを踏まえた上で、今、考えておきたいことは2つある、「生活の確保の確認」と「ご家族の同意」だ。

 まず、生活の確保についてだ。毎日を安心して暮らせないと、不安で仕事どころではなくなってしまう。生活といえば、お金が必要だよね。1年間ぐらい働かなくても生活できるぐらいの余裕があると安心だ。家族3人なら、300万円ぐらいあればどうにかなるだろう。余計な出費を抑えれば、それでも十分豊かに生活できる。近藤君の貯金をかき集めて、どのぐらいあるか調べて欲しい。もし、足りなければ、親御さんなど、身近な人に借りるのもいいだろう。

 僕の意見では、この時期 ……つまり、軌道に乗る前のスタート時期は、できるだけ出費を抑えたほうがいい。実家に住むことができるのなら、家賃を払う必要もなくなるからそれもいいね。親御さんも、一緒に住むことができて喜ぶかもしれないしね。幸い、近藤君は、技術力とアイデアで仕事を生み出すんだから、仕事場所も比較的自由だし、レストランを経営するような、一か八かで大きな借金をしなくても大丈夫。」

 タケシは、「300万円確保」と手帳に書き込んだ。

 「次に、ご家族の同意だけど、いきなり『プログラマで飯を食っていく』と宣言しても、『はい、そうですか』と言う家族はまずいない。奥さんなら『どうして今じゃなきゃいけないの?』と生活が不安になるだろうし、親御さんなら、腹を痛めて産んだ子供に、安定した生活を送ってもらいたいと願うだろう。ひょっとしたら、『こんな不景気な時代に、なんてバカなことを……』と喧嘩になってしまうかもしれない。

 こんなときに、事業計画書やビジネスモデルを綿密に作ってご家族に説明しても、意味がまったく通じずに、逆に、大きな壁を作ることになるだろう。

 家族にとって最大の不安は、お金や生活の心配だ。「今、独立なんかして本当に将来大丈夫なのか?」という不安を拭ってあげる必要がある。その不安を乗り越えて、ご家族に応援してもらうには、これから話す流れでご家族に説明すればうまく行くだろう」

 タケシは、次の言葉に耳を傾けた。

 これは物語です。話の展開上、特定の個人、企業、商品名等を連想させる表現が場合によってはあるかもしれません。いずれの場合においても、それらを批判、非難、中傷するものではございません。また、こうすれば絶対にうまく行くという保証をするものでもありません。主人公が成長する過程で起こりうる思考や体験を再現するものとして、ご理解いただければ幸いです。

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