時には母のない子のように
2009年5月27日午後5時、わたくしの元父、横尾照雄が永眠しました。享年77歳でした。死因は肺水腫による呼吸困難でした。心筋梗塞も併発していました。お医者さまも、すでになす術がありませんでした。
【時には母のない子のように】
昭和7年、北九州市八幡東区(当時の八幡市)生まれ。戦時中を、軍国少年として育つ。三男であるため、長男の敏彦とは生まれながらに食事や座る場所、寝る場所さえ区別されて育てられ、ねじけて育つ。戦後は日本国憲法に惹かれる。地元の文学部を出たかったらしいのだが、父親である熊彦の強い奨めもあり上京。成蹊大学商学部に入学。関係者曰く「喫茶店などで女性をひっかけて、勉強せんと遊んでばっかり」で中退。
「三男だから横尾の家を継げるものとは思わないように」という掟もあり、なにくそ精神で頑張り、前述のスラッグウール工業所の専務(断熱材の技術営業)に抜擢。33歳で結婚するも、嫁と長男芳彦が相次いで病死。36歳でうちのお母さんと再婚。長男に、日本国憲法から一字を取った、憲雄と名付ける。これが僕です。で、うちのお母さんをナンパした曲が、カルメン・マキの「時には母のない子のように」だったのです。寺山修司さん作詞の、なんともうらさびしい曲です。
【片手落ちのソリューション営業】
「九州グラスロン」という名の、自分の会社を持てたまでは良かったのですが、FRP(ファイバー・レインフォースト・プラスチック)などの、比較的良いソリューションを提供できながら、営業力という点においては、たとえば、資金回収がうまくできなかったり、情に流されたりで、経営は芳しくなかったそうです。技術のまずさは自宅にも出ていて、たとえば、セントラルヒーティングの家を造っても、配管の圧力損失(たとえばストローの長さが長くなると、ジュースが吸いづらくなるような現象)などを考慮に入れていないせいか、ボイラー室での冷媒や熱水が家全体に回らない、などのトラブルもありました。
とにかく、兄貴が失敗すると、兄貴の尻ぬぐいができることをチャンスと考え、兄貴より役立ちます、といった自己アピールに終始。結局、自分の仕事はきちんとできていなかったようです(普通の技術営業に比べれば)。もしも長男だったら、こんないらぬ意地の張り合いはなかったように思います。三男だからこそ超えられない壁がある……古い家ならではの確執がそこにはあったように思います。
【親父は骨になった】
こういう体験は初めてだったので、恐怖でその夜は眠れなかったのですが、棺桶の中には、安らかな親父の姿がありました。九州出身で「なんかこの洟垂れが」などと威勢良く振る舞って、元ライオンズクラブで、会社社長だった親父からは、すでにそういった面影はありませんでした。無数の花に囲まれて、静かに最期の時を迎えようとしていました。
最期の時はあっという間でした。読経が済むと、さっさと霊柩車に載せられ、火葬場に着いたら、早速焼きにかかる準備がなされました。火葬場の5番ランプが点灯すると、いよいよです。まるで、死刑台のエレベーターのようなたたずまいです。やがて、1時間15分かかって焼かれた遺体は、大腿骨とのどぼとけを残してほぼ粉砕されていました。「親父が骨になったか」……そうつぶやきました。いちばん大きな骨壺にも納めきれなくて、ふたができないので、係員が棒で遺骨をつっつくのですが、余り良い気持ちはしませんでした。他人ならともかく、実の親父ですから。
きわめて軽量化され、コンパクトになった遺骨は、父方の親戚に預けられました。きっと佐賀県の菩提寺に納められることでしょう。僕は、初めての恐怖で、その後飯ものどに通らず、ホテルに戻っても眠ることさえできず、幼いころしてもらった数々のことを思い出しながら、お茶ばかり飲んでいました。翌朝になっても食欲がなく調子が悪かったので、近所の薬局でセデス錠と、しまいには救心を買って飲んでいました。午後4時発の新幹線を、午後1時発の新幹線に切り替えて、さっさと大阪へ帰ることにしました。
死んだら終い。天国も地獄もなく、そこには無があるだけ。無から生じて生を受け、やがて無に帰っていく。そこには無があるのみです。
(思索と模索は続く……)