LINEが暴く、秘められた子どもたちの社会
LINEが社会問題になっている。しかし、この問題はLINEによってもたらされたのだろうか?
いや、違う。問題は昔から存在していた。私が子どもの頃にもそれは存在していた。時にそれは私の生活圏の地域社会の中で、事件として顕在化することもあったが、全国規模のニュースになることはあまりなかったというだけのこと。問題は昔からあったのだ。
■子どもの社会を見える化するLINE
問題が顕在化したのは、子どものIT化が進んで、イジメや悪だくみの経過がエビデンスとして残るようになったからだ。
そしてそこに、大人には理解不能なITが絡んでいたから、ものごとの本質ではなく、LINEという単なるコミュニケーションツールがクローズアップされる事態となったわけだ。
つまり、LINEは子どものドロドロとした社会を見える化してくれたのだ。そういう意味では、むしろLINEは、大人たちから感謝されて然るべきなのではないだろうか。
■子どもはそんなに子どもじゃない
どうもわれわれ大人は、「子どもの純朴さを大人になって失った」という幻想を抱きがちだ。しかし私自身を振り返ってみると、小学生の高学年から中学生くらいで自分の根っこになる部分はドロドロとした汚い部分も含めて確立されていた。それは自分だけでなく、周囲の友だちも含めての話だ。
しかし、これまではそうした子どもたちのドロドロとした社会はほとんど大人たちに知られることなく、見過ごされて来た。
子どもたちは自分たちの掟に従って行動するし、その掟の中には大人への不信感、警戒感から来る、守秘義務も含まれている。掟の名の下に行われる私刑(リンチ)は、TVドラマの中だけに存在する作り話ではないのだ。
もちろん、すべての子どもがそんなにドロドロしているわけではない。しかし、いつの時代にも、一定の割合でそのような子どもが存在してきたことは確かだ。
そしてそのような子どもたちは、大人になっても沈黙を守り通してきたものだ。
■テクノロジーを見るな、子どもを見ろ!
まぁ、そんなわけで、テクノロジーに惑わされてはいけない。ITリテラシーの低さに引け目を感じる必要などない。本質はそこではない。
子どもたちが抱える闇と、真剣に向き合うだけでいい。10歳のココロは、思いのほか成熟しているのだから。