技術を究めるための、たったひとつの冴えたやり方
次から次へと新しい技術が出現したり消滅したりするなかで、何かを究めるとは、どういうことなのだろう。そもそもそれは可能なのか、あるいは意味のあることなのだろうか。今回は、エンジニアは技術とどう向き合うべきか、という点について考えてみよう。
■料理人の逸話
『荘子』に、主君の前で牛の解体をして見せる料理人の話がある(*1)。それをざっくりまとめると次のようになる。
その料理人が肉を切る音はまるで音楽のようで、また彼の身のこなしはまさに舞のようだった。その様を見ていた主君が「技術もここまで極めるとは、すばらしい!」と感心すると、料理人は「技術ですって? 私が追究しているのは『道』です。それはもう、技術など超越したものなのですよ」と答えた。
彼は続けて言った。「私も最初は牛の外見が見えるばかりでどこから手をつけていいやら分かりませんでした。しかし、今ではどこをどう切ればいいか、目で見なくても感覚で分かります」と。
「下手な料理人は骨にガリガリと包丁があたって刃こぼれしてしまうので毎月包丁を新調しなければなりません。上手い料理人でさえ、力任せに肉を切り裂くので、年に1度は包丁を替えます。しかし私は牛の体の造りを見極め、自然の摂理に従って包丁を動かすので、骨は関節から軽やかに外れ、肉はスルスルと剥がれていきます。おかげて19年同じ包丁を使っていますが、いまだに刃先は砥石で研いだばかりのようです。」
ここで重要なのは、彼は高価で高性能な包丁を誇っているわけではないということだ。解体の対象である牛をよく知っていることを誇っているのだ。それを彼は「技術を超えたもの」と言っている。
私は、これこそ技術を究めるということだと考える。
■究めるということ
例えば、ある言語の文法を覚えて、その言語でプログラムが組めるようになる。これは、技術の習得だ。 その言語の文法に精通し、開発プロジェクトにおいて、プロジェクトメンバーのどんな質問にも答えられるようになった。もちろんそれは大切なことだ。しかし、それだけでは単にその言語の文法を100%習得しただけだ。技術を究めたとは言いがたい。
プログラマは言語学者ではない。言語の文法も、設計原則も、デザインパターンも、しょせんは技術であり、それを覚えること自体を目的にしてしまっては意味がない。それらはシステムを構築するための単なるツールでしかないのだから。
技術を究めるとは、その先へと行くことなのだ。「その先」とは、技術を使ってシステムを構築する対象を深く理解するということに他ならない。これが先ほどの料理人が言った『道』だ。
『道』というコトバは日本人にはなじみ深い。剣道、柔道、茶道、書道、華道など、多くの人が学校や習い事などで体験したことがあるはずだ。しかし、では『道』とは何かと問われたとき、答えられるヒトはどのくらいいるだろうか?
■それがあなたの生きる道
『道』とは、対象とするものの中に隠れている本質だ。また、その本質を見極める行為そのものも『道』といえる。
技術は、本質へたどり着くための単なるツールでしかない。先ほどの料理人は、包丁でたくさんの牛を解体しながら、対象を深く識ることによって、ついにはツールとしての包丁の性能を極限まで高めることができた。
技術を究めることは、このように技術を超えたところに到達することによってはじめて可能となるものではないだろうか。
特定の技術は数年で廃れるかも知れない。しかし、その技術を通して『道』を見つけることが出来たなら、それは決して枯れず、色あせることなく、あなたの中にとどまるだろう。そして、この先どんなに技術のトレンドが変化しても、あなたは最前線で活躍し続けることができるだろう。
あなたがそこで見つけた『道』。それがあなたの生きる道だ。
(*1)『荘子』内篇「養生主 庖丁」
コメント
仲澤@失業者
いいですね「道」。極めたいもんです。
ところでこの料理人の話を読んで、ある人物を思い出してしまいました。
比叡山阿闍梨の酒井雄哉氏です。
彼が2度目の千日回峰行を満行した後の、某放送局のアナの質問、
「・・・で、さとりみたいなものはあったのでしょうか」
に答えて
「・・・んなものないよう。ただ疲れてふらふらになるだけさ(笑)」
いや~、自分はこっちを答えられる方にないりたいのかもしれません。
onoT
なかなかカッコいいですね。
それも、究めたからこそ言えることなんでしょうね!!