引用の耐えられない軽さ
To be is to do (存在は行動なり) カント
To do is to be (行動は存在なり) サルトル
Do be do be do (ドゥビィドゥビィドゥー) シナトラ
人類の長い歴史の中で「もっと光を!」と叫んだ人はおそらくたくさんいるだろう。
しかし、われわれは「もっと光を!」という言葉を、ゲーテのオリジナルとして認識する。おそらく私が死ぬ間際に「もっと光を!」と叫んだら、それを聞いた人は眉をしかめて「なんだ、こいつは最後までオリジナリティのない奴だな」などと誹られるのだろう。
さて、それと同じように今のこの世の中では、「To be is to do」はカントの言葉であり、「To do is to be」はサルトルの言葉であり、「Do be do be do」はシナトラの言葉である。
ということになっている。少なくとも、これらの言葉が単体で存在している際には。
ところが、この3つの言葉を、この順番で並べると、それは単体とはまったく別の意味、別の価値を生み出し、これらの言葉を並べた人のオリジナルの言葉として認識されることになる。ITの世界でもおなじみの、「マッシュアップ」と呼ばれているやり方だ。
冒頭の3行は、もうかれこれ25年ほども前になるが、リュック・ベッソン監督の映画『サブウェイ』の中で観た。この映画の全編に満ちているdoとbeが冒頭の3行に集約されている。その見事さに舌を巻いたものだ。
さて、その後、私は1997年に刊行された金関寿夫『雌牛の幽霊』という詩集の中で、詩の一節として、この言葉の並びに再会する。その詩の中では、4行目が追加されていて、
Do it to a bee (蜂の如くせよ) マゾッホ
となっている。さらに、その後に、これらの言葉は、とある大学の男子トイレの落書きから拾って来たものだと書かれてある。
おそらく、『サブウェイ』を観た学生が、それに触発されて作ったのだろう。まぁ、やはりどこの国でもトイレの落書きというのは同じようなものらしい。ちょっと下品な方向(*1)に走っているのはご愛嬌というべきか……。
ところで、ジェームズ・ウェブ・ヤングは、
「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」
と言った。これはジャック・フォスターの『アイデアのヒント』の中で紹介されていたアイデアの定義だ。
『アイデア』というと、以前はなんだかまったく新しい概念をゼロから作り出さなければならないような気にさせられてしまい、一部の特別な能力のある人の仕事と感じて、他人事のように感じる人が多かった。
それが、『マッシュアップ』という言葉のおかげで、われわれはアイデアの本質に気軽に近づけるようになったようだ。
既存の要素自体も、初めから組み合わせられることを想定して作られることも多くなった。しかし重要なのは、マッシュアップをしたいという欲求は、生産者側だけに発生しているわけではないということだ。
YouTubeやニコニコ動画などに投稿される作品を見ていると、消費者側の『引用消費欲』とでも言うべきものの強さを感じ取ることができる。
われわれは、人類史上、類を見ないほど豊富なアイデアのネタに囲まれて生活しているのだ。
最近は『シェア』というキーワードが大きくクローズアップされているが、私は『引用』というキーワードも、『シェア』に劣らず重要なのではないかと感じている。
消費者の『引用の消費欲』を満たすビジネス。
どうだろう。この考えを引用して、誰かこの切り口で面白いものを作ってみてはもらえないだろうか?
(*1)ええと。蛇足だけど、マゾッホはオーストリアの小説家で、精神的・肉体的な苦痛に快楽を感じる倒錯の世界を指す、『マゾヒズム』『マゾヒスト』の元となった人のこと。つまり、“Do it to a bee”の訳は、そのコンテキストで理解してほしい。「嗚呼、どうか私を蜂のやうに……(以下、自粛)」
コメント
アラファイブ
関係ない話しですが、NHKの昔の番組で「空中都市008」と言うのが有りましたが、その作中、エアカーを開発した偉い人が、実験中逃れられない事故に巻き込まれた時の最後の言葉が「もっと制御を!」で、子ども心にやたら怖がったのを記憶しています。
onoT
なるほど、その局面でのその言葉は怖いですね。
ところで「空中都市008」という番組は知らなかったので、ウィキで見てきたんですけど、驚きました!
何が驚いたって、「本編は一切現存せず」ってところです。
15分番組とはいえ、全230話がすべて保存されていないというのは衝撃でした。
その理由が「ビデオテープ(2インチVTR)は非常に高価で大型であり、収録された映像は放送終了後に消去されて他の番組に使い回されていたため」ってのがまた凄い。
ある意味贅沢ですよね。
でも、これじゃ引用できません。。。