戦国Facebook
個人情報保護法が施行されてから、わが国の個人情報に対する態度はちょっといき過ぎなんじゃないかな、と感じているのは私だけだろうか。
特徴的なのは、過剰に反応しているのが企業よりもむしろ個人の方であるところで、そのうち、家の表札や墓石にすら名前を出すのがタブーになるのではないかという勢いだ。
とはいえ、日本人は昔から個人情報には敏感だったことも確かだ。
「言霊」という言葉が示すように、昔の日本では、神は言葉にも宿ると考えられていた。八百万の神の国・ニッポンの面目躍如といったところか。
古事記や日本書紀の時代は本名(諱:いみな)を知られると、呪詛のターゲットになるため、敵にそれを知られるのはタブーだった。だからハンドルネームみたいなもの(仮名:けみょう。中国では字:あざな)を持っていて、「あなたは誰」と聞かれると、そのハンドルネームの方を名乗っていたとか(※諱は東アジアの漢字文化圏に広く見られるものらしい)。
さて、武家社会になっても諱(いみな)と仮名は使い分けられていた。武士が名乗りを上げて一騎打ちをする際に使うのは、もちろん仮名の方だ。
しかし、諱は普段使わないので、仮名こそが実の名前といってもいいような気がする(一説によると西郷吉之助などは自分の諱を忘れてしまったとか。「隆盛」は、本当は彼の父の諱)。
というわけで、武士は自分の名を大音声で叫びアピールする。
これはもう、敵にも味方にも、
「俺を見ろ! 俺はこんなにいい仕事してるんだぞ! 評価しやがれ!」
といっているようなモノだ。
究極の360度評価が浸透していた、古き良き時代!
ここに立身出世主義の原形を見て取れる、といったら大げさか。
さて、このような個人情報の開示志向と隠蔽志向の違いは、どこから来るのだろう。それは多分、心理的なバランスが「攻撃」と「防御」どちらに傾いているかによって変わるのだろう。
ここでいう「攻撃」とは、なにも相手を傷つけるとかそういうことではなく、積極的に自分を開示することによって「未来を切り拓く意志」を示す。
また「防御」とは、「現状を維持する心理」といった意味だが、その根底には、現状に満足していて変化を欲していない、という面があるのかもしれない。あるいは、現状には満足していないけれど、変化によって現状以下になる不安の方が大きいとか。
こういう視点で考えると、Facebookのような実名制のソーシャルメディアが活発に利用されるような社会(国、地域、組織)は、積極的に前進しようとするパワーがより強いのだといえるだろう。
ただし、同じ国・地域・組織の中でも、その構成員の間では攻撃と防御の心理バランスはばらつきがある。
攻撃側に傾いている人々はFacebookで戦略を練り、防御側に傾いている人々は集合意識をTwitterで盛り上げる、といったところか。
さて、映画やアラブ情勢で注目されているFacebookだが、実名制という壁を越えて、日本にどこまで浸透するだろう。その浸透の度合いによって、日本人の現在の心理バランスを読むことができるかもしれない。
ところで、戦国時代にFacebookがあったら、武士はみんな使っただろうな。
そんなSFを書いてみたい今日このごろ……。