カミュ「ペスト」に思う、新型コロナウイルスや緊急事態宣言ですっかり変わってしまった日常をどう生きるかということ
こんにちは、第3バイオリンです。
先日、カミュの「ペスト」という小説を読みました。2年ほど前、Eテレの「100分de名著」というテレビ番組でこの小説が紹介されていたのですが、そのときは興味をひかれつつも原典を読む機会がないままになっていました。
しかし、ここ数ヶ月のうちに新型コロナウイルスが世界中に拡がっていく様子をみて「これってまるで番組で見た『ペスト』の世界そのままじゃないか」と思うようになりました。ちょうどそのタイミングで、「100分de名著」の「ペスト」の回が再放送されることになり、この機会にちゃんと原典を読んでみようと思い書店に向かいました。
今回は、「ペスト」を読んで、いまこの世界で何が起こっているのか、このご時世にわたしにできることは何かを考えてみました。
■「ペスト」とは
小説「ペスト」は、ノーベル文学賞作家アルベール・カミュの代表作のひとつです。ペストが蔓延し、外部と完全に遮断されたアルジェの街オランを舞台に、医師リウーをはじめとする街の人々がペストに立ち向かう姿を描いた長編小説です。
ペストという「不条理」に直面したとき、人はどのように考え、行動するのか。「不条理」のなかで、それでも生きてゆくとはどういうことなのか。第二次大戦、ナチスドイツ占領という「不条理」を目の当たりにしたカミュ自身の体験が暗喩として描かれています。
■言葉の限界
物語は、主人公の医師リウーが、自宅のアパートで一匹のネズミの死骸につまずくところから始まります。そのときはそれほど気にも留めなかったリウーですが、ネズミの死骸は街に増え続け、最初の異変からわずか2週間ほどで原因不明の病気に倒れる人が続出します。ペストを疑うリウーですが、役人たちは責任を負うことを恐れてなかなかペストであることを認めようとしません。役所の対応が後手に回るうちに死者は増え続け、とうとう植民地総統府の命令によりオランの街は封鎖されます(今でいうロックダウンです)。
ネズミの死骸を見つけてから街にペストが蔓延しはじめるまでの時間の短さ、官僚的なしがらみによる対応の遅れ、街が封鎖されたあとも現実を受け入れられず「自分だけは感染しない」と言わんばかりに繁華街へと繰り出す市民たち......何から何まで現在のわたしたちの世界と同じで戦慄を覚えるほどです。
特にわたしが目をひかれたのは、封鎖された後のオランの人々のコミュニケーションについてです。街が封鎖された後は当然、人の出入りは一切できなくなりました。街の外にいる家族や友人、恋人と連絡を取るにも、手紙は病原菌を媒介する恐れがあるとして禁止されました。電話も回線のパンクを避けるために、冠婚葬祭レベルの緊急性の高い連絡以外には使えなくなってしまいました。
そうなると、残された手段は電報のみです。ところが、電報は文字数に制限があります。自分の気持ちや考えが限られた文字数、限られた言葉でしか伝えられないということです。さらに、街に取り残された人同士の会話でも、自分の気持ちを打ち明けても完全には伝わらない、それによって返ってくる返事が期待とは異なって傷ついてしまう、といったことが起こります。
わたしはこのくだりを読んで、これは現代のSNSと同じじゃないかと思いました。カミュがこの小説を書いた約70年前から通信手段はいくらか発達したかもしれませんが、言葉やコミュニケーションの本質はなにひとつ変わっていないことに愕然としました。言葉を生業にしていたカミュが、言葉の限界について描写しているということは興味深いです。
■疫病の中で快適に暮らす人たち
街が閉鎖され、ペストが猛威を振るってくるとオランの市民は絶望と恐怖、そして無気力にさいなまれていきました。しかし、ただひとりコタールという男だけは上機嫌でした。このコタールは密売に関わっており、街が封鎖される前は逮捕されることにおびえて自殺未遂までした人物です。ところが、街が封鎖されるとまず逮捕の心配がなくなりました。さらに、市民がペストの恐怖におびえているのを見て、かつて逮捕におびえていた自分と重ねて一体感を覚えます。そしてリウーたちの前で「ペストの中で暮らすほうが快適だ」とさえ言い放ちます。
これだけ書くとコタールとはなんともいけ好かない人物ですが、しかしカミュはコタールのことをどうしようもない極悪人のようには描いていません。実際、リウーはコタールと街中で出会ったときに会話はしますが、決して彼を非難したり説教をしたりはしません。このような状況になれば、必ずコタールのような人間も現れる、それも含めて人間の本質というものなのだ、というカミュの考えが見て取れます。
ところで今のこの状況、新型コロナウイルスの流行で世の中が不安と混乱に包まれている中のほうが快適だという人間はどんな人間でしょうか。わたしは、マスクなどを買い占めて高値で転売する人、不安につけこんだ詐欺をはたらく人、わざとデマやフェイクニュースを拡散させてますます世間を混乱させてやろうとたくらむ人、などがそうなのかなと思います。このような人が完全にいなくなることはないでしょう。しかし、こういう状況になれば必ずコタールのような人間が現れる、ということを心に留めておけば、適度な距離を取りつつ付き合っていくことができるかもしれません。
■人知れず活躍する冴えないおっさんが街を救うのかもしれない
リウーはペストと闘うため、友人タルーとともに、市民有志による「保健隊」を結成しました。保健隊は、各地区の衛生状態の調査や消毒、ペスト患者の搬送の手続きなど、医師のサポートや役人の手の回らない仕事を引き受けました。
この保健隊のメンバーに、グランという小役人がいました。彼は役人とはいっても臨時職員で給料は安く、女房には逃げられ、唯一の楽しみは誰にも見せない小説を書くこと、しかも納得のいく作品にしたくて冒頭の一文だけを何度も書き直しているという、一言でいえば「冴えないおっさん」です。
しかし、この冴えないおっさんであるグランが保健隊で思わぬ活躍を見せます。役所で登録や統計の仕事をしているグランは、いつしか保健隊の幹事役を果たしていました。それでも、別にヒーローとして持ち上げられることもなく、ささやかな仕事でみんなの役に立ちたいといい淡々と保健隊の仕事に励みます。ときには保健隊の仕事に入れ込むあまり本業がおろそかになって上司に叱られたり、自分が書いている小説の一文を書き直すたびにリウーたちに得意げに読んで聞かせてみたり、最後まで冴えない、けれど愛すべきおっさんとして描かれています。
決して顔も名前も出ることがないけれど、自分にできることを精いっぱいやっている。今、人知れず活躍しているグランのような人が世界中にたくさんいるのだと思うと、ありがたくもあり心強くもあります。
■それで、結局わたしにできることは何だ?
オランの街の封鎖から約10ヶ月後、ペストは下火となりついに封鎖が解除される日がやってきます。今の新型コロナウイルスが落ち着いて緊急事態宣言や自粛ムードが解除されるのがいつになるのか、現段階ではわかりません。もしかしたら、10ヶ月といわずもっと長い期間になるかもしれません。
まあ、いつかは終わると思いますが、それがいつかは現段階では誰にもわかりません。主婦である今のわたしにできることは、家族の健康を守ることくらいでしょうか。医療関係者などと比べると、あまりにも小さいなあと思います。わたしはグランのことを「冴えないおっさん」だなんて言えませんね。
「ペスト」の終盤、物語の語り手であるリウーは、ペストとの闘いの日々で得た知識と記憶を後世のために書き綴ってきたことを告白します。リウーは、いつかペストがよみがえる日が必ず来るであろうことに思いを馳せながらこの物語を閉じます。「ペスト」の執筆から約70年経って、それが現実になるとはさすがにカミュもリウーも想像できなかったことでしょう。しかし、わたしを含め多くの人が今の時代に「ペスト」を読んでいろいろなことを考えたりしているということは、カミュとリウーの知識と記憶がちゃんと受け継がれているということかもしれません。
わたしも今回のことで得た知識と記憶を、コラムを含め何かの形で残そうと思います。
コメント
helveticd
コロナ禍で一番ホッとしているのは、コロナ以前からの引きこもりの人かも知れませんね。
今まで、引きこもりで生産性のない(と非難される)日々を送ってきて、肩身のせまい思いをしていたのが、堂々と引きこもれるお墨付きが得られたわけですから…。
私もカミュのペストを読みました。
リウーやグランはもとより、コタールにさえ親近感を覚えます。
第3バイオリン
helveticdさん
コメントありがとうございます。
>コロナ禍で一番ホッとしているのは、コロナ以前からの引きこもりの人かも知れませんね。
それはあるかもしれませんね。
コロナ禍のなか、テレワークによって長距離通勤や会社の人間関係のわずらわしさがなくなって成果を上げたり家庭生活が改善されたりする人や、
新しい形のビジネスを打ち出したりしている人もいます。
思わぬかたちではありますが、世の中の転換期が来ているのかもしれません。
>リウーやグランはもとより、コタールにさえ親近感を覚えます。
カミュはすべての登場人物に対して親しみと暖かいまなざしを向けて、コタールの末路には憐れみも含めて描いていると思います。
「ペスト」の中の一文
「人間のなかには軽蔑すべきものよりも賛美すべきもののほうが多くある」
この一言に、カミュの人間観が詰まっていると思います。