オンライン脱抑制から人間中心サイバーセキュリティへ
John R. Sulerの研究がHCCSに示すもの

John R. Sulerの功績は、広く知られる「オンライン脱抑制効果」の提唱だけにとどまらない。彼は、サイバー空間を単なる情報伝達手段ではなく、人間のアイデンティティ、感情、対人関係、判断、責任感を変化させる心理的環境として捉えた。
Sulerは、サイバー空間において、人は自己の一部を選択的に表現し、現実とは異なる役割や人格を試し、状況によって異なる自己を形成すると論じた [1], [3]。また、オンライン上の逸脱行動についても、個人の性格や道徳性だけでなく、匿名性、幻想、社会的手掛かりの不足、技術的な仕組み、集団規範の相互作用から理解する必要があることを示した [4]。
その考えを最も明確に示したのが、2004年の「オンライン脱抑制効果」である [5]。Sulerは、オンライン環境によって通常の抑制が弱まり、人が対面では行わない言動を取りやすくなると説明した。
ただし、脱抑制は必ずしも有害ではない。
良性の脱抑制は、率直な自己開示、親切、共感、支援、助けを求める行動を促す。一方、有害な脱抑制は、攻撃、脅迫、侮辱、羞恥を与える行為、敵意を増幅させる。
Sulerは、その背景として次の六つの要因を挙げた [5]。
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解離的匿名性
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不可視性
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非同期性
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独我論的取り込み
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解離的想像
- 地位・権威の最小化
これらの要因は、単にオンライン上の「失礼な行動」を説明するものではない。デジタル環境において、人が誰を信頼し、何を開示し、どのように反応し、どの権威に従うかという、判断そのものが変化する理由を説明している。
Sulerは後に、デジタル体験を、アイデンティティ、社会、相互作用、テキスト、感覚、時間、現実、身体という八つの次元から分析する「サイバー心理学アーキテクチャ」を提示した [2], [6]。これは、オンライン上の行動を個人の弱さだけに帰すのではなく、環境の設計が行動をどのように促進し、抑制するのかを検討する視点である。
ここに、人間中心サイバーセキュリティ(Human-Centered Cybersecurity:HCCS)の理論的な出発点がある。
HCCSが守ろうとするのは、システムや情報だけではない。デジタル環境の中で形成される、人間の判断条件そのものである。
フィッシング、なりすまし、オンライン攻撃、ソーシャルエンジニアリング、ディープフェイク、AIによる説得や操作は、匿名性、不確かなアイデンティティ、擬似的な権威、緊急性、心理的距離を利用する。そこでは、知識を持っているだけでは安全な判断を維持できない。
だからこそ、セキュリティは「もっと注意してください」と個人に要求するだけでは不十分である。
組織には、人が立ち止まり、疑い、別経路で確認し、不確実性を相談し、誤りを報告できる環境を設計する責任がある。分かりやすい確認手段、判断を支えるガードレール、心理的安全性、説明可能な権限構造、そして個人を責めるのではなく環境から学ぶJust Cultureが必要になる。
同時に、HCCSはすべての脱抑制を排除しようとするものではない。良性の脱抑制は、従業員が「分からない」「間違えたかもしれない」「助けてほしい」と率直に伝える力になる。
目指すべきなのは、開放性を抑えることではない。良性の開放性を守りながら、有害な脱抑制、操作、衝動的行動が増幅されにくい環境をつくることである。
Sulerは、サイバー空間が人間の自己、抑制、社会的行動、責任感をどのように変えるかを説明した。HCCSは、その知見をサイバーセキュリティの設計、教育、組織文化、ガバナンスへと発展させる。
AI時代のサイバーセキュリティが守るべきものは、人が知っている情報だけではない。
人が立ち止まり、考え、確かめ、責任を持って行動できる条件そのものなのである。
参考文献
[1] J. R. Suler, The Psychology of Cyberspace, 2024 PDF ed. [Online]. Available: https://www.johnsuler.com/pdfs/psycyber.pdf
[2] J. R. Suler, "The eight dimensions of cyberpsychology architecture: A transdisciplinary model of digital environments and experiences," 2016. [Online]. Available: https://www.johnsuler.com/article_pdfs/cyberpsy_arch_overview.pdf
[3] J. R. Suler, "Identity management in cyberspace," Journal of Applied Psychoanalytic Studies, vol. 4, no. 4, pp. 455-459, 2002.
[4] J. R. Suler and W. L. Phillips, "The bad boys of cyberspace: Deviant behavior in a multimedia chat community," CyberPsychology & Behavior, vol. 1, no. 3, pp. 275-294, 1998.
[5] J. R. Suler, "The online disinhibition effect," CyberPsychology & Behavior, vol. 7, no. 3, pp. 321-326, 2004, doi: 10.1089/1094931041291295.
[6] J. R. Suler, "The disinhibited self," in Psychology of the Digital Age: Humans Become Electric. Cambridge, U.K.: Cambridge University Press, 2016.