いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

天才を目指す前に考えるべきこと

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天才への歪んだイメージ

 IT系の勉強会というのは良い。いろいろな人に出会えるからだ。奇才、天才、異才といろいろな人と話をする機会が得られた。突拍子も無い話だが、このコラムを今読んでいるあなた。天才という存在と会ったことがあるだろうか?そして言葉を交わしたことがあるだろうか?

 人によっては、歴史に残る人物くらいでないと天才と認識しないこともある。また、自分の属する組織でちょっと実績をあげた程度でも天才と認識する人もいる。そもそも天才ってなんなんだ?そこら辺の認識を整理しないと、出会ったとしても認識できないだろう。また、私が誰かを「天才」と称したとしても、「そんなことはない!」と、無益な水掛け論がヒートアップするだけだろう。

 ただはっきり言えることが一つある。凡人が天才を見抜くことは難しい。歴史に残る「天才」と称される人たちでも、必ず沈んでいる時期がある。才能を秘めていても、それが認められるまでのタイムラグがある。人によっては、死んでから評価されることもある。才能を持っていたとしても、それが認識される場合とされない場合があるのだ。

 考えてもみよう。凡人が簡単に天才を見抜けるなら、世の中、もっと多くの才能が花開いて素晴らしい世の中になってるはずだ。人の才能を見抜けないから凡人なのだ。何故に人の才能を見抜けないか。それは、天才に対して根拠の無いイメージを膨らませるからだ。現実とイメージのギャップが大きければ、目の前にいたとしても認識できまい。

実際の天才

 もし、社会的な地位が欲しいとか、収入を増やしたいなら、天才になる必要は全く無い。人並み外れた才能を持っていたとして、評価されるかどうかは別問題だ。幸せになれる条件においては、凡人と大した差が無いだろう。才能があれば、人から多くの賞賛を得られる分、逆に妬みも買う。幸せになれるかどうかは、才能よりその人の持つ徳じゃないかと思う。

 あと、天才というのはだいたい何かが偏っている。一方的に優れているというより、能力の割り振りを一極集中した感じだ。今まで会ったことのある人より抜きん出た才能を持つ人が、だいたいこんな感じだった。普通に話をした時の反応が、明らかに普通の人と違う。また、特定のキーワードに対して異様に鋭い返答が返ってきたりする。

 一般的に天才とは、凡人プラス才能と考えられがちだ。実際は、生存戦略のために引き起こした突然変異か、極度の嗜好の偏りが生み出した狂気の集大成といった感じだ。決して美しいものではない。才能とは個性みたいなものだ。どのような才能を持っていようと、一人の人として大きな差があるものでもない。

 ぶっちゃけ、目の前に天才と称される人がいたとしても、努力して能力を勝ち得たのか、転生の才能で能力を勝ち得たのか区別がつかないだろう。優れている根拠によって、天才、奇才、秀才といろいろカテゴリ分けができるが、そんな事をいちいち考えていないと思う。ましてや、組織の力で持ち上げられているのか、その個人の能力なのか、そういう切り分けもかなり適当だ。そんな曖昧な価値基準に一喜一憂しても利益は無い。

曖昧なイメージを元に行動すればそりゃ失敗するだろう

 天才という基準はかなりいい加減だ。場合によっては、ドラマやらアニメの基準が適用されることさえある。そんなものを基準に頑張ったところで、非現実的な目標を設定したり、到底無理な条件を設定したりするだけだ。そもそも、そんな基準を現実的にクリアできるのか。そこからチェックする必要がある。高い目標と無謀な目標は違う。

 憧れることでモチベーションは保てると思うが、モチベーションだけでは足りない。目標やら手段やら、いろいろと必要になる要素がある。モチベーションが高いと、地平線の果てまで走っていけそうな気分になるが、モチベーションに任せて行動すると、無駄な行動が増える。モチベーションという熱さだけでなく、冷静な思考というのも必須になる。

 飛び抜けた才能なんて、実のところ大して役に立たない。学生の頃を思い出せば分かると思う。学生の頃はスポーツ万能で多少イケメンなら大いに女子にモテた。しかし、社会に出てからはどうだろう。プロなら別だが、スポーツ万能でも大してモテない。そんなことより、学歴やら収入の方が優先される。価値観が変われば、才能なんて途端に価値が無くなってしまうことだってあるのだ。

 天才というのは、才能だけでなれるものでもない。才能というのは、あくまでスタート地点に過ぎない。あとは日頃の積み重ねでなんとかなる。大事なのは、自分の意思を持って行動することだ。他人の目線を気にして努力をしてもブレる。自分が何を積み重ねてきたか。凡才と天才を分ける要素はそれに尽きると思う。

天才を目指すより幸福になることをダイレクトに目指そう

 確かに、天才というのは誰もがなれるという訳ではない。そこをダイレクトに別解釈すると、そんなもの誰もが目指すようなものじゃないと言い換えられる。天才を目指すより、自分が幸せになれる条件を揃えていく方がはるかに賢い。そもそも、優れた人しか生き残れないという考え方も排他的だ。そんな風潮を冗長しても、殺伐とするだけであまり意味も無い。

 一つの組織においても、それぞれがそれぞれの役目を全うすれば十分に回っていく。天才的な能力を発揮する人に頼る組織は、特定の人に役目が集中しやすい。結果、効率的な動きができなくなる。優秀であるためには、いちいちずば抜ける必要もない。そこそこの能力を発揮すれば十分だ。

 天才にしかできないことは天才がやってくれればいい。それを万人がやる必要は全くない。ましてや、背伸びしてまで天才になる必要などない。学校教育の悪影響だろうか、万人が優秀でなければならないと勘違いしてはいないだろうか。何だか分からないような優秀さを目指すより、自分が価値を感じるものを納得いくまで追求すればいい。

 天才というのは、目指してなるものというより、気がついたらなっているようなものみたいだ。私が天才だと思う人を見ていると、頑張ったというより、やり続けたらそうなっちゃったという人がほとんどだ。もちろん、血の滲むような努力をしてそうなった人も大勢いる。才能を開花させるのもいいが、それぞれが幸福感を存分に実感できる方が圧倒的に価値があると思う。

Comment(1)

コメント

仲澤@失業者

天才に出会ったことはありませんが、何人かの非常に頭の良い人にあったことはあります。
ほとんどの分野で自分より高い能力を発揮し、かつ大量の知識も持ってました。
特にがつがつと学んでいる風でもなく、しかも、自分より何歳も若い。

どうしてそんなに頭が良いのですかと尋ねると、だいたい似たような回答で、
だいたいいつも考えたり、おもしろそうなことは調べたりしているのかも
・・・ということでした。
つまり散歩の時すら目に入る物から自動的に何かを常に学んでいるわけで、差がつくのは当たり前。
それ、もっと若い時に教えてよと思いましたが、まぁこういったものは生来の気性なのかもしれません。

自分は教えてもらうまで気が付きもしませんでしたが、
「日本の漫画の吹き出しは、漢字がゴシック風でひらがなは明朝風で印刷されている」
というトリビアをその理由付きで話してくれました。
まったくこの人は漫画のそんなとこまで見て、かつ調べているのかと驚きましたが、
いまでは自分も、真似して通勤時間等に色々と考えるようにしてます。
まぁ手遅れでしょうが。

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