コラムを書かなくなって感じたこと
コラム書くのにものすごい労力がかかっていた
去年、コラムニストを引退して登壇活動をぼちぼち頑張っている。登壇して話すというのは、得られるものが多い。コラムを書くのとはまた別の刺激がある。今は来年春に開催されるOSC東京の準備をしているところだ。話す内容やテーマを今、練り込んでいるところだ。登壇が迫ってきたら、また宣伝でコラムを書くかもしれない。
登壇といっても、普段仕事で使っている技術をそのまま話すというより、話すたびに新技を開発するようなノリだ。コラムを読んで分かるように、私はひねくれものだ。人の話すような話はしたくない。やるんだったら、撃沈覚悟で人と違う価値観をつきつけたい。その分よけいに手間がかかる。アウトプットとインプットを天秤にかける人がよくいるが、そんな天秤を踏み壊してロックな登壇がしたいだけだ。
労力に対してリターンが見込めないっものに全力投球しているのだ。自分のスタンスを見える化すると、自分が単なるアホに見えてくる。ロジカル大好きな人から見ると、支離滅裂なポリシーだと思う。同じ労力をビジネスに注げば、それなりの収入を得られたかもしれない。女の子を口説くのに注げば、今ごろ綺麗な嫁さんとイチャイチャしていたかもしれない。
今まで書いたコラムが約600本。一本書くのにだいたい二時間かかる。人知れず没にしたコラムも5本に1本程度ある。少なく見積もっても、最低でも1200時間をコラムの執筆にあてたのだ。ちなみにコメントへの返答も一回につき平均で5分程度かけている。これも含めればコラムに費やした時間はだいたい1300時間程度だ。これだけの時間を技術なり趣味なりに割けば、何らかものにはなるだろう。
積み重ねを捨てる覚悟
これだけの手間と時間をかけると、何なりの形になるというのがプラスの面だ。マイナスの面は執着が発生することだ。このことは一般にあまり語られない。継続は力になるが、執着すると新しいことに躊躇するようになる。現場にいるレガシー大好きおじさんを見れば一目瞭然だろう。結果を出した人が自分の出した結果に執着すると腐りだす。
一般的な感覚からするとかなりかけ離れているが、何らか成功を収めたなら、早々にそこから立ち去るべきだ。いつまでも同じ場所にいてはいけない。後から来る人にサッサとポジションを譲るべきだ。さらなる高みを目指すか別分野に挑戦する。もしくは、隠居して一歩離れたポジションに身をおくのがいい。成功者は出しゃばるべきではない。
自分のレベルが上がれば取り組むべき課題も変わる。課題が変われば、今まで通じていた方法が通じなくなることも多々ある。自分がベストと思っている方法でも、課題が変われば悪手に変わることもある。そうなった時は、躊躇なく自分のベストをかなぐり捨てることが必要になる。何でも付け足していけばいいという訳ではない。
そういう意味で、コラムを書く本数を大幅に削減して正解だったと思う。本気で技術に取り組んだり登壇したりするとなると、とてもコラムを書いている時間を確保できない。コラムの執筆に向けていた労力を別の対象に向けることで、別なことが可能になる。成長というのは、そういうトレードオフの選択が多く含まれる。成長とは、何かを引き換えにしてトランスフォームしていくことだと思う。
実績に寄りかかると脳みそが腐る
コラムにしても、ある程度書いていると成功パターンみたいなものが分かってくる。そういうのにのっかれば、あまり考えなくてもある程度の質のコラムをバンバン書ける。ただ、新しい流れがでてきた時に一歩遅れやすくなる。大企業で働いているお偉いさんの大半がこういうパターンだ。多分、努力はしただろうが、自分の成功パターンにこだわり過ぎて時代の流れを見失っている。
コラムを書かなくなって思ったのは、コラムニストとしての積み重ねをかなぐり捨て、脳みそが軽くなったということだ。毎週コラムのネタを考えてたリソースがまるまる空いたので、自宅サーバの構築に割り当ててみたらすごい勢いで捗った。あれもやりたい、これもやりたいという発想では、本当にやりたいことを逃すなと思う。脳みそのリソースは有限だ。
積み重ねは大事だ。しかし、絶対的な優位の保証ではない。通じなくなった時点で、積み重ねは貯蓄から負債へと変わる。感情としては認めたくないが、それがどうも事実っぽい。貯蓄か負債かの判断をするのは自分ではない。現実だ。これは結果が出てからでないと分からない。取捨選択できない人は、自分の積み重ねたものに埋もれて動けなくなっていく。
ただし、何かを継続的に努力することを否定するということではない。継続的に努力できる人が、フレキシブルに努力の対象を選べたら最強だよね。という話だ。物事を継続できる強靱な意志力と、自由に行動できる判断力が二つを兼ね備えることができれば素晴らしい。一つのことを積み重ねられる人も素晴らしいが、不要になったらスッパリ離れられる潔さも素晴らしい。プラス思考で「捨てる」ということを考えてみてはどうだろう。
再利用できる積み重ねの捨て方
とりあえずコラムは書くが、書いたとして月に一本くらいだろう。登壇するときの宣伝か、コラム一覧から名前が消えないように、保守の意味合いで書くくらいのものだろう。今までのように、自分の情報発信の中心というスタンスで書くことはもう無いだろう。もちろん、お○○○を連発して編集者さんに注意を食らうことももうないだろう。・・・多分ない。
コラムを書かない理由の一番は、時間的なリソースの問題だ。エンジニアライフが寂しくならないよう、ネタは別のコラムニスとに託して、一人分の枠が空かないように引き継ぎはしておいた。誰とは言わないが、コラムニストのOEMといったところだろうか。自分の持っているものを、全部自分で使わなくてもいい。譲れるものは人に譲ればいい。
自分の積み重ねたものは、いつか役に立たなくなる。仕事でバリバリに積み重ねをしている人でも、定年を迎えれば積み重ねは役に立たなくなる。キャリアを積むにしてもスキルを磨くにしても、役に立たなくなったときにどうするかを想定しているだろうか。そんな積みっぱなしのキャリアは人生の転換期で破綻しやすい。磨きっぱなしのスキルはスキル以外の要素からほころびが生じる。
いつか無くなるという想定がない積み重ねは、無計画な積み重ねと言わざるを得ない。退路を断った一発奮起のような覚悟は無い、「無くなる」という最大の想定外が放置されているので計画的とも言えない。そういう中途半端な積み重ねになるからだ。いつか無くなるという想定があるなら、積み重ねたものは自分自身を裏切らない。積み重ねを再構築できるプランを織り込む余地があるからだ。世間は正月明けだ。年始めのなんやらで、こんなこともちょっと考えてみてはどうだろうか。