教える時に気をつけるべき相手の理解度 -- 俺式 --
こんにちは、Anubisです。
人に教えるときに「何か噛み合っていないぞ」、「これ話が通じないなあ」、「コイツ、わかっていないな」と思うときはあれ、どうやれば相手が理解してくれるかがわからない。・・・と思うのだが、ここで9割の人が陥る罠がある。
手塚さんのコラムを読んで、話を切り出すタイミングはここだ!と思い、コラムにしました。言われてみるとあり得るが、自分に当てはめると「そんなことはない!」と言いたくなる。そんな内容となります。
教える側がすぐれているとは限らない
教える側がよく陥る勘違い。それは、「教えている自分の方が偉い」と思い込んでしまうことだ。普通に考えれば、教える側の人間の方が、多くの知識を持っていることになっている。また、経験豊富で人に技術を伝えたり、問題が起きた時に解決できる力があると考えられている。
が、実際はどうだろうか。教えるという仕事を任されただけで、大した中身が無い場合も多々ある。現場に依存した知識しか持ち合わせておらず、経験といっても、単に慣れているだけ。今までこうやってきた、というやり方は伝えられるが、技術的根拠を持ち合わせていない。そういうケースを腐るほど見てきた。
教えるというと、学校の教師と生徒の関係を想像する人は多いと思う。そこに間違いがある。教えるといっても、知ってる人が知らない人に情報を伝えるというそれだけの行為だ。人に何かを与えたから、自分は相手より偉くて優れているという訳でもない。いちいち自分の優位性に結び付けるのも短絡的だ。
例えば、東京で有名なある大学の教授が最寄りの駅が分からずに道に迷っていたとしよう。そこであなたは最寄りの駅への行き方を教えたとしよう。あなたのおかげで大学教授は駅に辿りつけたと。あなたは確かにその大学教授の知らないことを知っていたと。だが、あなたの方がその大学教授より優れていることになるだろうか。専門分野の話となれば、あなたは手も足も出ないだろう。教える側の優位性なんてその程度なものだ。
教える側の理解度
人にものを教える前に自分の理解度をチェックしよう。実はこの理解度は、手塚さんのコラムに書かれていた基準をそのまま流用できる。
1:何が問題になっているかがわからない
2:問題点がわかるが解決方法がわからない
3:似た問題は解決できたが、応用ができない
4:問題解決までのスピードや精度が不十分
5:ほぼ理解しているので大丈夫
6:人に教えることができる
この基準を手塚さんに教えた先輩の方は、非常に繊細に物事を分析する方だと思う。こういう先輩に指導を頂けた手塚さんも、非常に恵まれていたと思う。
教える側の人に、客観的な立場からこの基準でチェックをしていったらどうだろうか。3:くらいのレベルまで達したら、人の力を借りて仕事ができる。4:まで行けば一人で仕事をこなせるようになる。5:まで行けば業務の改善ができる。6:まで行くと困っている人を助ける余裕ができる。
こういう基準で教える側のチェックをしてみたらどうだろう。さすがに1:の段階の人はまれだが、3:か4:くらいで止まっている人が大半だ。教える側が偉いと思い込む原因は、無条件に6:の段階に到達していると思い込むことだ。偉いと自負していいのは、5:か6:まで達して、実際に人を助けている人に限られる。
教えられる側が劣っているとは限らない
もう一つ気をつけるべきは、教えられる相手が劣っているとは限らないということだ。これは教える立場としては非常に認めたくない事実だ。これを認めてしまったら、教える側と教わる側の立場が入れ替わってしまう。これを覆されたら、教える側は立場を失ってしまう。
昔、大学で仕事をしていたことがあるが、数百人に一人、本当に優れている人というのはいる。何が凄いかというと、先天的に凄い。同じ事を同じようにやっても追いつけない。そういう人は、一年の努力で普通の人の五年分の成長を遂げる。現代人の仕事のやり方は効率が至極悪いので、五年努力したつもりで、二年分の成長しかできないことも多い。むしろ後退することもある。
しかも、IT業界は技術の移り変わりが激しい。十年かけて身に付けた技術が古くなって、大学四年で勉強した最新技術に負けることもある。しかも、新人の方が発想力ははるかに柔軟だ。ベテランが新人に負ける要素は多く考えられる。教えられる側が教えるレベルで、教える側が教えを乞わなければならないレベルというケースもあり得る状況だ。
相手の実力なんて、相手を理解しようと思わないと、なかなか分からない。また、自分より上を行っている人間のレベルは簡単に判別がつかない。何より、教えてる相手に自分より高度な技術でコードを書かれたらどうだろう。絶対に認めないだろう。ゴリ押しで自分のメンツを押し通すか、サルのように顔を真っ赤にして無意味に怒る。そうやって現実を捻じ曲げるのが関の山だ。
教える際に逆襲を受けずに幸せになる手段
こうなると教える側も大変だ。自分のレベルも上げなければならないし、相手を見極める眼力をつけなくてはいけない。十分に準備をしたつもりでも覆される可能性はゼロにはできない。戦々恐々として心休まる暇もなくなることだろう。そんなあなたに、実はすごく良い方法があるのだ。
教えるのではなく、会話をすればいいのだ。簡単なものだ。相手が凄いなら認めてしまえばいい。逆に相手からいろいろ教えてもらって、自分のものにしてしまえばいいのだ。相手を認めると、認められた方は嬉しくなる。そうすれば、あなたの話を聞いてくれるようになる。
いちいち優劣つけたがるのは、自分が優れている自信がない裏返しだ。きつい言い方をすれば、精神的な基盤がもろい。その時点で人として劣っている。技術以前の話だ。こういう精神的な弱さは簡単に見抜かれてしまう。見抜かれてしまったら、しょぼい人と烙印を押されてしまう。こうなると、威圧するくらいしか対抗する手段は無くなる。
誰もが一流の技術を身に付けるのは難しい。なりたくても人に教えるレベルに到達できるとも限らなない。そんな人こそ、人の話を聞く力がものをいう。巷で言われるコミュニケーション能力のような薄っぺらいものではない。会話を成り立たせる能力だ。
一流の技術を身に付けるより、優れてる人に一言「凄い」と言って認める方が段違いに楽だ。会話を成り立たせる技術は、一流でなくても十分に役に立つ。みんなで会話を成り立たせる技術を身に付けれて、足りないものを補いあっていけばいい。きっと、みんなでハッピーになれるはずだ。
コメント
ハリコフ
色々と理屈はあるのでしょうが、自分の仕事の必要性を説明できるように、自分自身に問いかける習慣を持っていれば、教える側が優秀だろうと、そうじゃなかろうと、指導としては十分じゃないかと思います。
直接の後輩ではないのですが、時々ドン引きするくらい頭の廻る人に教えることがあります。一を聞いて十を知るというか。突っ込みが鋭くて辛くもあるのですが、そういう人には逆に良い提案があるなら考えて欲しいって振っています。
必ずしも自分が後輩より優れている必要はないし、優秀な子がいるなら、その能力を発揮させてあげることこそ、本当に必要な指導ではないかと思います。