それでも君は多数派を選ぶ
▪️多数派とは呪いのようなものだ
手塚さんのコラムを読んで思うことありきで書いてみた。多数派の人って、自分たちの意見が正しいと思っているのだろうか。私の思うに、正しいか間違えているかすら考えていないと思う。見えていないので、思考の対象として捉えることすらできないのではないかと思うのだ。
実際、何らかの課題にぶつかった時に斬新な発想を出そうとする人は多いはずだ。だが、ほとんどの人が斬新な発想を出すことができない。そして、どんなに考えてもセオリー通りの方法がループするだけだ。はっきり言って、思考というよりただ迷ってるだけだ。
▪️強烈な個性もまた呪いのようなものだ
手塚さんのコラムの続きで、「じゃ、多数派を抜け出せば!」と思う方もいるかもしれない。だが、強烈な個性を持て余す少数派の立場として、それはNoだと言いたい。強烈な個性というのは、F1のマシンのようなものだ。性能は高いが一般道では走れない。自分の走るコースを見つけないとむしろポンコツだ。
そして、少数派か多数派に分かれる根本は感性だ。そうそう簡単に変えれるものではない。書店で売っている自己啓発の本にしても、書いた人が少数派でも、本を売るために多数派に通じる内容に変換して書かれている。読んだところで少数派の最も言いたい事なんて伝わらない。
少数派には少数派の苦難がある。少数派の人も同じように、多数派の人に近づこうと日々悶絶としているのだ。そういう意味で、多数派だろうと少数派だろうと大した変わりはない。立ってる位置が違うだけだ。
▪️生まれ持ったものをどうこう言っても仕方ない
本質的には、少数派だろうが多数派だろうと関係がない。この関係というのも、環境が変われば簡単に覆るからだ。例えば、日本で多数派だったとしても、インドに行けばあ圧倒的に少数派の人になる。大企業なんかで多数派で安穏としていると、組織を離れたとたんに孤立してしまう。
多数派か少数派かなんていうのは、おっぱいが好きか、首筋から肩にかけてのラインが好きか、その違いみたいなものだ。本質的にどうでもいい。結局、多数派だろうと少数派だろうと、困難を乗り越えたいと思うなら、必要なのは単純な能力だ。
簡単な例でいけば、単純に仕事ができるかどうか。これだけでもいろいろなものが覆せることがある。もっと細かくいえば、洞察力、忍耐力、分析力といったもの。言葉に表せないようなものとしては、何となく人を惹きつける力とか、言葉の力、精神的な安定性とかそういったものだ。
▪️自分のいる世界の壁を破ること
こういった能力を意図的に高めていくと、ある段階に至った時、自分の見た事の無い世界を垣間見ることがある。こういう経験が無いと、自分が絶対的だと勘違いしやすい。成長する努力をやめたら見える世界は広がらなくなる。だけならいいが、実際は萎んでいく。結局のところ、継続的なアクションが必要になる。
自分の見えている世界が広いか狭いか。これが問題だ。考えるにしても、まず、考える対象になるものが見えていなければ始まらない。自分の世界を広げるには、実際に体験するのが一番だ。本を読んだり人から話を聞くだけでは、自分の都合のいいように話をまとめてしまうからだ。
自分と違う世界に飛び込んで、そこの人たちを理解しようとする。結局それしかない。これができないのなら、少数派、多数派の枠の中でもがくしかないのだろう。何やら大変そうな印象を受けたかもしれない。だが、人が人を理解するというのは、自分たちの想像するより素晴らしいものじゃないかと思うのだ。
手塚さんがコラムに取り上げたテーマが非常に良かったので、私も同じテーマでコラムを書いてみた。