アリとキリギリス(現代版)
アリは死にかけていた。
いつものように餌を探しに行くところだった。いくばくか巣を離れたところで、急に人間の足に押しつぶされた。たまたま小石の影にいたので、何とか命は取り留めた。しかし、仲間はみんなぺちゃんこになってしまった。
思えば無口な奴らだった。口を開けば「女王様」としか言わなかった。仕事には厳しいノルマが課せられていた。仕事を終えて巣に戻ると、頑張って探してきたご馳走を、「女王様のため」と全部取り上げられる。そんな毎日だった。
急に一人になると、いろいろなことを考えだす。巣では、オスアリと女王の娘がチャラチャラと遊び呆けていた。取り上げられたご馳走を、いつもあいつらが美味しそうに食べていた。そんなことを思い出し、悔しさと悲しさが胸を突き上げた。
もう身体が動いてくれない。アリはもう長く生きられないことを悟った。少し眠くなってきたので目を閉じようか。そう思ったとき、どこからか美しいメロディーが聞こえてくる。どうしたことだろう。アリが首をもたげると、そこにはキリギリスがいた。
「どうしたんだい? ひどい怪我じゃないか」
キリギリスは優しくアリに語りかけた。綺麗なエメラルドグリーンの身体、大きな瞳、スラっと伸びた長い脚。アリには全てが輝いて見えた。
「人間に踏まれてしまったんだ。仲間はみんな…… っう……」
アリはこらえきれず泣きだした。生まれてからずっと、仕事、仕事、仕事。悔しいことがあっても、悲しいことがあっても口答えすることは許されなっかった。ただ周りに合わせることに必死だった。今思うとくだらないことばかりだった。そんな一生でも、いざ閉じるとなると悲しいものだった。
「かわいそうに。せめて私の歌で君の心が慰められるのなら……」
キリギリスはメロディーを奏でた。まさに消えゆく生命に優しく語りかけるように奏でた。これがアリにとって、今生最後に聴くメロディーとなるのだろう。しかし、アリよ。臨終において、労働に縛られたその身から開放されるのだ。理不尽なことも多かったろう。せめて心を鎮め、安らかにその身を終えられるよう、このメロディーを捧げよう。
キリギリスの演奏を聴きながら、アリは安らかな表情で目を閉じてその生涯を終えた。アリを看取ったキリギリスは、静かに演奏を終え黙祷を捧げた。
「蟻の生を受けた魂よ、子孫すら残せぬ身体で、ただ働くという業を背負いし蟻よ、汝は哀れなり。次に生を受ける時は、もっと幸福な存在として生を受けるがよい。」
虫の世の無常に、キリギリスはアリの身を哀れみ、来世の幸福を祈った。
後にキリギリスは虫の生を終え、僧侶として生まれ変わり、多くの人の心に安らぎをあたえたとのことだ……。
■思いっきり皮肉を込めて書いてみた
まず、そこでのさばってるお偉いさんに一言。自分は一生懸命働いてる働き蟻と思ってないか? それは違う。単に働きアリから搾取している女王アリだ。その女王アリに媚びへつらっている、取り巻きたち。それは遊び呆けるオスアリだ。
アリとキリギリス。同じテーマを題材にしても、角度を変えると全く違ったものが見えてくる。単に一生懸命働くだけで良い成果が出せるのだろうか。良いサービスを生み出せるのだろうか。成果を急ぎすぎて、思わぬ落とし穴に落ちる。それは、まさにアリが不意に人に踏まれるように、ある日突然やってくるのだ。
■観念に縛られ過ぎないこと
優秀そうな人が必ずしも優秀とは限らない。人材の本質は、チェックリストで洗いだしたくらいでは見抜けない。一見、キリギリスのようなちゃらんぽらんそうな人でも、状況しだいで思わぬ能力を発揮することがある。
勤勉=優秀。これは一昔前に流行った判断基準だ。現実では、勤勉な勘違いほど迷惑なものはない。そう感じている人も多いだろう。現実を見抜くのに必要なのは、細かいチェックシートではない。さまざまな角度から見る観察力だ。
意外に優秀な人材は身近にいる。それに気付かないのは、考え方がカチコチに観念に縛られているからではないだろうか。そんなことで、頭の体操で別解釈で「アリとキリギリス」を書いてみた。