光と闇を抱きしめて
■光のあたり方
仕事をしていても、光の当ってる人、光の当らない人、何となく分かれていく。そういうことはないだろうか。表現を変えると、ネガティブさとポジティブさと言ったところだろうか。ポジティブな人は明るい感じがするし、ネガティブな人は暗い。何かに恵まれるとポジティブになり、何かが乏しいとネガティブになる。
そして人は誰しもポジティブな光みたいなものを求め、闇を遠ざけようとする。光と闇の狭間で行き来する旅人のようだ。
■光の裏には、必ず影という闇がある
光が強いほど、また、影も濃くなる。一世を風靡したスターほど、売れなくなったときの悲壮感が強くなる。高い技術力を持つエンジニアほど、暴走した時にはタチが悪い。ポジティブな要素の裏には、必ずネガティブな要素がつきまとう。
実のところ、コラムを書いているとそんな事をよく感じるのだ。現実生活がしんどくなるほど、コラムのネタが冴えたりする。不幸の数だけコラムが書けてしまう。そんな時期があった。コラムの裏面は、私の血と汗と嘆きで塗り固められているんだ。
■光を超え、闇を超えた先
まぁ、今も相変わらず現実生活ではピンチは続いている。しかし、以前のように不幸をネタにコラムを書くことはなくなった。ある時、1つ判断することをやめた。そう、“良い”と“悪い”を区別する事をやめたのだ。
ちまたに並ぶ本を読んでみても、多く本を書ける人と多く本を書けない人がいる。よく読むと分るのだが、善悪、正誤、そういう二極論な考え方な人ほど多くの本を書けなかったり、内容が薄くなったりする傾向がある。エンジニアでも似たような傾向がある。二極論の人ほど行き詰まりやすい。
ただこれはよく考えれば簡単なことだ。二極論では、2つしか選択支がない。当然、見える世界は狭くなる。この、二極論を超えた時、私は流れるようにコラムが書けるようになった。
■二極論を超えた先そこにあったのは宇宙だ
かなり大げさなことを言ってみた。二極論を超えた先にいきなり宇宙はないが、似たようにいろいろな発想を乗り越えていくと、最終的には宇宙のように広大な世界が見えてくる。
具体的に言おう。コラムを書くとき、最終的な結論とか内容を、「~が良い」「~が悪い」という基準で考えると、発想が行き詰まりやすいのだ。別に「~が良い」「~が悪い」だけでなく、「~すると変わる」とか「~がその先にある」とか、そんなのでも良いわけだ。
良い悪いでコラムを書いていた時には、自分の不幸をネタにしかコラムが書けなかった。しかし、この二極論を超えた時、何かが自分の中で変わった。コラムの中に燃える小宇宙(コスモ)を感じた。
■これを伝えたい2種類の人がいる。
これを伝えたい人。それは、コラムを書いている人だ。喜びに溺れる人に書きたいネタなんて浮かばない。悲しみに暮れてし書く気力も失せる。今、書けなくてもいい。読んで受けなくてもいい。それを受け入れた時、思うだけで筆が進み、気がつけば文章になっている。
また、エンジニアにも同じことが言える。「正しい」か「間違えている」ばかりにこだわっていると、すぐそこに答えの書いてある本があっても、視界に入らなくなる。確かに、一見、白と黒のドットの集まりでも、距離を置いて見ると、文字だった。そういう結論があったりする。
そう、善悪の判断を超えたところに、真実はある。そしてこれはたどり着いた者にしか分らない。光と闇。双方を受け入れた時。そこにあるのは宇宙だ。観念に縛られない自由がそこにある。