コペンハーゲンの混乱
2009年12月25日の「@IT自分戦略研究所 Weekly」に掲載したコラムを紹介します。2010年は「グローバル」という単語が話題になった年だったように思います。ローカルとグローバルの境界線、来年はどうなっていくのでしょうか。
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国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)が12月19日に閉幕しました。この会議の成果は、各国によるコペンハーゲン協定という政治合意への留意、として歴史に刻まれることになるでしょう。とはいえ、この政治的な合意には法的拘束力というものがありません。英国のガーディアンや仏国のル・モンドを見ると、彼らがCOP15の結果に深く失望していることがうかがえます。
問題は失望の中身です。例えば、ガーディアンでは国際協力団体オックスファムのチーフ・エグゼクティブにインタビューを行い、世界の指導者が数値の議論に注力するあまり、気候変動の問題が貧困国に住む人々の生存に悲惨な影響を及ぼすことを忘れているという批判を載せています。
もちろん日本の新聞もCOP15の結果には大いに不満を漏らしていました。しかし、その不満の内容は主に、外交的な駆け引きの不調や経済的不平等に関するものでした。毎日新聞がある電力会社首脳から興味深い発言を引き出しています。この発言に日本の経済界の本音が表現されています。曰く「COP15は経済における軍縮交渉。自国を有利にする駆け引きの場なのに日本は甘い」。
コペンハーゲンの混乱(ル・モンド)と各国のジャーナリストの反応を見ながら僕は、英国の外交官だったカーン・ロスの著書の一文を思い出しました。彼はカール・ポパーを援用してこんなことを書いています。「国の外交政策の決定について、国益にもとづく現実主義的なモデルは、競争的で長期的視野を欠き、結局は、非生産的な政策を生み出しがちだ」。では、どうすればよいのでしょうか。ロス氏(=ポパー)は、政策立案の出発点に「苦しみの最小化」という基準を設けるのがよいといいます。つまり、「苦しみの最小化という目的は、 1つの文化や宗教に属するのではなく、普遍的なものでもあり、国際社会が合意できる可能性がある」ということです。
いま僕たちが生きているこの世界は、どんな小さな出来事でも国際的な側面を持たないではいられないという風に構造化されつつあります。ローカルとグローバルの境界線がどんどん摩耗している。2009年の終わりにCOP15という人類にとって大きなイベントがありました。このイベントはこれからの人類の歩み方を予測するうえで、大変重要なものであると僕は考えています。そして、みなさんに関係が深いIT業界の行方、日本の未来、ひいては、アイティメディアの今後、明日の僕のお昼ご飯にもたいへん深く関わることなのだと考えているのです。