[小説] Close To The Edge(1)好事多魔
キーを叩く音だけが、喧騒から隔離されたコンピュータールームに、タタタンと響いている。
ここは埼玉県の北部。埼玉と云えば、全国で八つしかない、海のない県だ。それなのに、まるで船に乗っているかのような、そんな錯覚に陥っている。
「先月、隅田川で食べたハゼの天ぷら、美味しかったな」
軽い揺れの中、ふと思いつきぼそっと放った独り言に、後ろから、どうした、という声がかかる。それに対して、僕は振り向きもせず、手をひらひらと振りながら、某時計メーカーが、以前こんな調査をしていたことを思い出していた。
「急用時、相手の携帯電話に伝言を入れてから、折り返しの電話があるまで、どのくらい待たされるとイライラしますか?」
結果は、およそ九割の回答者が「一時間以内」と答えていた。まあ、そんなものだろう、と思いつつ、携帯電話が普及する前は、もっと長かったことも事実だろう。
今は、<当たり前のようにある通信インフラストラクチャ>の恩恵を受け、<どこにいてもすぐに連絡を取ることができること>に、誰もが、何の疑問も持たなくなっていた。
便利すぎるのも善し悪しだな、とひとりごち、またキーボードに置いた手を、せわしなくたたき続けた。
*
僕たちがリリースしたゲーム『アイマ』は、最初は知り合いと、その知り合いの程度の間で、ひっそりと使われているに過ぎなかったが、いつしか口コミからどんどん広がり、そこそこプレイヤー人数が増えるゲームへと成長していった。
ゲームの内容自体は、よくある位置登録ゲーム、いわゆる「位置ゲー」。設定されたポイントを回り、チェックインすることで、プレイヤーの評価が上がっていくタイプのゲームで、内容自体はありきたりなものだったが、一つだけ特徴的なものがあった。
それは、電波が圏外でもチェックインできること。
技術的な面で正確を期すと、チェックインできない可能性もあるのだが、少なくとも首都圏において、プレイヤー人数が増えることにより、その可能性はゼロに近づいていた。
これは、通常の回線の他、このゲームを使用している人たちの間でアドホックネットワークを形成し、それ利用するという、ハイブリッドな通信方式で実現していることによる。
アドホックネットワークとは、携帯電話の基地局を使わず、端末の通信機能を使用した、一時的なネットワークのこと。消火作業におけるバケツリレーを思い浮かべると、理解がし易いだろうか。
バケツリレーとは違い、次に受け取る人が決まっておらず、また、受け取る人が、その場で待っている訳でもないため、経路の決定アルゴリズムは中々複雑になっているが、それが我が社の技術的な売りの部分と云える。
つまり、電波の届かないところではバケツリレー――アドホックネットワーク―― を使い、電波が通じる人までたどり着いたら、代理でチェックイン情報を、サーバにアップロードする仕組みにしている。
他人の通信網を無断で使うのか、とか、セキュリティに配慮しているのか、という批判も一時は起こったが、チェックイン情報自体の情報量が少なく、また、データ自体の暗号化もしているため、丁寧に説明していくにつれ、その批判も収まっていった。
その結果、利用者が増えていき、社会的注目も高まっていった。そこで、インフラを増強するべく、北関東にある大型データセンターと契約し、先月から、新しいデータセンターでの稼働が開始したところだ。
意気揚々。充実する毎日。希望に満ち溢れる、そんな時に、それは起こった――