言語の歴史は人類の歴史。そして人類はコンピュータを言語で動かすようになった。

対話できる人っていたっけ?

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白栁隆司さんのコラム「対話のできない国、日本」を読んで思ったのですが、対話が成り立つ人は貴重です。普通に仕事してても対話が成り立たないことが普通です。対話が成り立たないというのは、話がかみ合わなくて会話が成立しないというのではありません。話が一方的なので、対話になっていないということです。ウォーターフォール式に、立場の高い方から低い方へ一方的に話が進むような事例が当たり前になっています。民間の人がそうなので、行政機関やJOCの人がそれをやっても不自然ではありません。

そもそも、対話のやり方を知らない人が多いのではないでしょうか。対話の基本は、お互い同じラインに立つことです。例えば、会社で自分の部下と同じラインに立って話ができるでしょうか。やってみると、けっこう難しいです。立場が上だろうが下だろうが、人ひとりを納得させるには、多くの準備や段取りが必要です。今の時代、そういうことに時間や労力を割くような余裕はありません。多くの人が、立場でぶん殴って言うことを聞かせているのではないでしょうか。

あと、立場でぶん殴って言うことを聞かせるのは気持ちいいです。多分、素敵な異性とお食事をするくらいには気持ちいいでしょう。優越感にどっぷり浸れるし、自分の意見もすんなり通ります。相手が意見しようものなら、ペシッと押さえつけると。これはもう、たまらなくプライドを満足させてくれます。これをやれる立場になったらやっちゃう人は多いです。そういう誘惑に耐える訓練を学校ではやっていません。よほど育ちの良い人でもない限り、自分をコントロールするのは難しいです。

すごく単純な話で、私たちは義務教育で対話をするための訓練をしていません。学校の授業でも、先生から一方的に授業が進められるのが普通です。そんな教育を受けてきたので、対話をするためのノウハウがありません。対話ができない国になったのは、教育がお粗末だからです。そんなお粗末な教育がまかり通るのは、私たちの知的レベルが低いからです。残念ですが、自分たちの非を認めざるを得ないと思います。まずは、「できない」ということを認知しなければ、次のアクションは起こせません。

対話というのは、ただの話の辻褄合わせではありません。言ったことを実行するまでが対話です。訓練なしにできるほど簡単なものではありません。対話ができるようになりたかったら、普段の行動や言動も見直す必要があります。対話は、お互いの言葉と行動と意思がかみ合って成り立つものです。精神論だけでは対話は成り立ちません。方法論が必要です。だからこそ、対話ができることは、非常に価値のあることだと思うのです。

Comment(1)

コメント

匿名

>すごく単純な話で、私たちは義務教育で対話をするための訓練をしていません。学校の授業でも、先生から一方的に授業が進められるのが普通です。


義務教育ではね。
そういう人はちゃんと大学行って、ゼミにでも入れば、そういう訓練はできるよ。
親がくそ貧乏で、進学できないとかならわかるが、世の中にそういう機会があるのに単に怠けてて勉強できなくて大学に行けない人がそういうこと言ってるのだとしたら単なる言い訳でしかない。
ちゃんと機会は得られるのにその努力をしてないってだけだから。


- Horus -
対話ができるというのは、優秀な人の特権としての能力ではなく、広く一般的な能力であってこそ意味があると思っています。


あと、「努力すりゃ大学くらい行けるだろバーカw」のような論調に品性を感じません。実際は、勉強しなくても定員割れの大学なら金を出せば行けます。まぁ、面白そうなので、そういう角度から今度コラムでも書いてみますか。良いヒントにはなりました。

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