「バイアス」という言葉が出たら議論の収束は望めない
これは私の経験則になりますが、「理論的」と「バイアス」という二つのキーワードが揃うと話が複雑化して収束点を見失います。そもそもバイアスとは何なのかというと、「個人の持つ見解の偏り」というのがそれらしいです。言葉の定義においては、このキーワードが出てくる会話がことごとく発散しているので、確証は持てていません。
「理論的」と「バイアス」が組み合わさるとどうして話が複雑化するのでしょうか。それは、話をする双方が「バイアス」を持っているからです。こじれる具合はこんな感じです。
Aさん「君には○○なバイアスがある」
Bさん「あなたにも△△というバイアスがあるのではないでしょうか」
Aさん「その見解が○○というバイアスなんだよ」
・・・と、お互いの見解の差を延々と指摘し続けて、時間と労力を無制限に消費することになります。
「バイアス」を語る者も必ず「バイアス」を持っています。これを指摘すると必ず「分っている」と返答が来ます。確かに知識においては理解しているでしょう。しかし、そういう状態で話をするとどうなるかを想像できる人は、なかなかいません。こういう表現をすると分りやすいと思います。
「見解の偏り(バイアス)を持つ人が見解の偏り(バイアス)を語っても話が収束しない」
それっぽい言葉で話をこねくり回すと、こういう簡単な話が難しくこじれてしまいます。
あともう一つ指摘するなら、議論を楽しんでしまうと無意識に結論を出すことを避けます。お互いの見解の差分なんて、指摘しようと思えば無制限に指摘しあうことができるので、話がループします。飲み屋で議論をしている人を想像していただくと分り易いでしょう。同じことを延々と繰り返して楽しんでいます。理論に凝り固まると、ああいうことを無意識に楽しむようになります。
理論的であることは良いことだと思います。ただ、理論に凝り固まると無意識に飲み屋で議論しているような人と同じような事をやってしまいます。お互いが納得して「それは素晴らしい!」で終わるのが理想的な議論の終着点だと思います。個人的には理論は問題を解決する方法というより、納得するための手段と考えています。問題解決に必要なのは、発想の柔軟さと多様な視点だと思っています。
コメント
匿名
受け取った情報や、自分自身の考え方に偏り=バイアスがあることを認識して、意識的に補正する。議論する相手に対して使うもんじゃないでしょう。
Horus
ご指摘のとおり、相手に使うものでないものを相手に使うので、話が発散するのだと思います。
熊猫
バイアスという言葉を話の中で使うと、こういう罠があるのか。水掛け論になると不毛になりますね。
バイアスがある前提でその先やその後ろを考えたり感じたりしながら納得できる落とし所を探すくらいの方が生産的なのかぁ。議論というか持論での殴り合いをただ続けることにならないように。
そもそも君
「認知バイアス」でググるとわかりますが、バイアスと一口に言っても様々な偏りがあります。
そのバイアスがどんな物で、補正するためのどんな客観的データを必要とするのかを検討する必要がある、と言う認識が欠けています。
議論する相手に使うのは構いませんよ。
偏見や差別があることを認識していない人がいたり、または瞬間的発言が生じるのも人ですから。
それは普段差別を批判している人にも当て嵌まりますし。
因みにバイアスの適用が当然の世界もあります。
匿名
議論は課題の構成要素を解く作業だから
バイアスなんで負数をもって来た時点で
虚数空間にご招待的な‥