Twitterを捨てよ町へ出よう
一般のユーザーにとって、ネットワークを介して利用するクラウド的サービスの中で最もイメージしやすいのは、GmailなどのWebメールや、mixiなどのソーシャル・メディアではないだろうか。そしてその代表格に、Twitterがある。
ふと気付くと、Twitterはいつのまにやらずいぶん普及したようだ。
企業プロモーションにも頻繁に登場し、テレビでは芸人がTwitterトークで笑いを取り、ドラマにまで発展。このコラムの読者にも、利用されている方が多いのではないだろうか。
一方で、フォロワーがつかず「自分のつぶやきに誰も反応しない」と孤独を抱えているユーザーもいるようである。確かに、Twitterに限らず、ブログであろうと掲示板の投稿だろうと、自分の発信した話題に誰もレスポンスを返してくれないというのは、むなしいものである。
■わたしも昔は孤独でした……
いまでこそTwitterでさまざまな人とコミュニケーションをとっているわたしにも、ネット上での孤独を経験した苦い記憶がある。
いまから10年ほど前、社会人になったばかりで夢と希望に充ち溢れてIT業界の門を叩いた直後のころ、1人の先輩が自前の「ホームページ」なるものを運用していた。
正確には「ホームページ」という名称は誤りである。ホームページとは、もともとブラウザを起動して一番最初に表示されるページのことであるので、本来は「ウェブページ」というのが正しい。しかし当時(いまでもそうか)、「ホームページ」はウェブページ全般を示す単語として用いられていたため、ここではあえて「ホームページ」と表現させていただくことにする。
ともあれ、「ホームページって自分で作れるんだ!」と衝撃を受けたわたしは、自分も勉強を兼ねてチャレンジしてみることにした。
無料のホスティングサーバに登録し、見よう見まねでHTMLを書いて日記サイトのようなものを作った。いまでいうブログのようなものだというのは、格好つけすぎだろうか。
しばらくして、CGIで掲示板を立ち上げた。お恥ずかしいことに、いま思えばクロスサイトスクリプティングし放題の危険きわまりないシロモノである。「<img>タグを書き込んだら画像が表示されるぜ、スゲーだろ!!」などと背筋が寒くなるようなことを得意げに友人に話していたことは、いまとなってはいい思い出である。本当に無知とは恐ろしいものだ。
いっちょまえにアクセス解析も仕込んだ。いったい自分のホームページにどのくらいの人々が訪れてくれているのか、知りたかったからだ。
結果として、半年ほど運用したわたしのホームページを訪れるのは、会社の同僚と友人だけ。掲示板への書き込みに至っては自分だけ……という悲惨なものだった。
リアルな知人しかアクセスしてこないと知っているホームページの日記に、本音など書けるはずもない。ある日、自分はいったい誰に向けて何のために毎日こんなところに日記を書いているのだろう、となんともいえぬ虚しさを感じて、そのホームページは閉鎖した。
わたしは、Twitterのつぶやきに誰も反応してくれない、と悩む人の気持ちは、「誰よりも理解できる」と声を大にしていえる。
■受身のままでは何も始まらないのはネットもリアルも一緒
わたしのホームページに自分以外誰も訪れなかった原因は、実に単純明快だ。
「誰もその存在を知らないし、興味もない」
ということだ。
世間はインターネットというものに1つの幻想を抱いている。それは、インターネット黎明(れいめい)期からいまに至るまで、繰り返し目にしてきたあるキャッチコピーによるものだろう。
「インターネットを使えば、世界中の人とつながれます!!」
この言葉に偽りはない。しかし、インターネットに接続すれば、誰でも、何もせずとも、世界中の人とコミュニケーションがとれるわけではない。インターネットは、全世界をネットワークで接続する通信インフラでしかない。ただ、その規模が大きく、利用しやすいというだけだ。
兼ねてから存在する通信インフラといえば、電話だ。例にとると分かりやすいが、電話を用いても、インターネットと同様「世界中の人とつながる」ことはできる。
ただ、あなたは電話というインフラに「これを使えば、世界中とつながれるんだ!」という期待を抱くだろうか? 答えはNOだろう。少し考えれば、理解できることだ。
わたしたちは、世界中の人の電話番号を知らない。世界中の言語をあやつれるわけでもない。そして世界中の多くの人々は、誰も「わたし」のことなど知らない。
インターネットで誰からもレスポンスがないというのは、つまりそれと同じことだ。
できるだけたくさんの人と会話がしたいなら、それだけの電話番号を知り、相手にもそれを知ってもらわなければならない。相手に電話番号を知ってもらうには、自分に対して興味を持ってもらわなければならない。ネットだろうと、それは変わらないのだ。
Twitterでレスポンスが欲しければ、第三者に興味を持ってもらえるような話題をつぶやき、共通の趣味を持つ人などを探して、自分から語りかけなければ、何も始まらない。
基本的にこれらはすべて人間同士のコミュニケーションであるのだから、リアルな人間関係も、Twitterであっても、原則的な部分は同じである。相手が興味を持ってくれればレスポンスが来る。相手が興味を失ったり、不快な思いをすれば自然と離れていく。Twitterはそういったやりとりがリアルと比べて規模が大きく、手軽である、というだけのことだ。
■もっと気軽に付き合えば良いのでは
Twitterは、必ずしも相手からのレスポンスを期待せずとも有効な使い方はいくらでもある。ただそういった「有効活用術」のようなものは、世の中に山ほど提供されている書籍やネット記事にその場を譲ればいい。このコラムでわたしがいいたいのは、もっと気軽にTwitterと付き合えばよいのではないか、ということだ。
Twitterは、実に手軽なツールである。興味を持った人がいればフォローすればいいし、相手のことが気に入らなかったり興味を失えば、リムーブなりブロックなりすればよい。リアルな人間関係のように、それらの行動が後の人生に尾を引くことなどない。
楽しいと思えば続ければいいし、つまらなければ、アカウントを消して別の楽しみに力を注いでもよい。たしかにTwitterは流行っているかもしれないが、それをやらないからといって、世間の流れに置いていかれてしまうとか、損をするなどということもない。Twitterはさまざまなメディアで絶賛されているほど、人生やビジネスにとって重要かといえば、そんなことはない。
わたしはIT業界という真っ先にTwitterに飛びつきそうな人々の集まりであるかのような世界に身を置いている。だが、実際にTwitterを有効活用したり思い切り楽しんでいる、という人は周囲に数えるほどしかいない。世間で騒がれているTwitter旋風に惑わされそうになるかもしれない。でも、実際はその程度のものなのだ。
Twitterはあくまでも、娯楽という位置付けで利用するのが最も健全な楽しみ方だと思う。
映画、音楽、読書、スポーツ。どれに関しても、楽しめる人もいれば興味を持たない人もいる。SNSを楽しむ人もいれば、携帯ゲームに興じる人もいるし、Twitterを楽しむ人もいる。そういうものだ。
わたしたちが生活する日本の社会には、さまざまな楽しみが満ちあふれている。
Twitterも、それらの中の1つにすぎない。
友人が勧める映画を観て、つまらないと感じても、それで悩む人などいない。
Twitterも、それと同じことにすぎない。
Twitterをつまらないと思うのならば、潔く捨ててみてはどうか。そして町へくりだし、別の楽しみを見つけ、それに興じようではないか。