いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

ちょっとだけ譲るだけで変わる未来

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便利さの見直し

日本には自動販売機がたくさんある。百円を入れれば、いつでもどこでも簡単に飲み物が手に入る。街中で、360度見渡せば、必ずと言っていいほど視界に自動販売機が目に入る。しかも、数台並んで設置されている。冷静に考えると、そこまで多くの自動販売機が必要だろうか。

売られているのは缶ジュースやペットボトルの飲料。当たり前すぎる。だが、一時的に喉を潤すだけにここまでのものが必要だろうか。調べてみたところ、缶ジュースの缶一本生産するのに、中型(100W)のテレビを17時間視聴できるだけの電力を消費する。しかも、一回使ったら完全にゴミだ。

自動販売機の数を十分の一、いや、二十分の一にしたところで、世の中で困る人は誰もいないだろう。多少かさばるかもしれないが、飲み物を水筒で持ち歩くようになったら、道に捨てられるゴミは激減することだろう。自分たちの生活のレベルを何ら落とさなくても、多くのエネルギーが節約できる。

お酒に関しては水筒で持ち歩くのは難なので、現行のままとしても、世の中から自動販売機が無くなり、缶ジュース、ペトボトルの飲み物が無くなるだけで、世の中の多くの問題が解決する。たかだかちょとした便利さのために、私たちは景観やポイ捨ての無い清潔な環境を失い、膨大なエネルギーを浪費している。

生活レベルを落とさずに豊かになる

夏のクソ暑い中、わざわざスーツを着ている人を見ると気の毒になる。みんなが普段着で仕事をするだけで、スーツにかかる無駄な衣料費やクリーニング代がかからない。しかも、季節に合った格好をして快適に仕事ができる。着たい人だけ、おしゃれとしてスーツを楽しめばいいのだ。

冠婚葬祭にしても、何故にやたらと金がかかるのかうんざりする。みんなで簡素に済ませたら、相当なお金が浮く。人生の重大なイベントなのは分かるが、それを理由に多くの資金と労力を消耗するのも違う気がする。これから十年後、同じ感覚で冠婚葬祭をやっていたら、冠婚葬祭で生活が破綻する人も出るんじゃないかと心配になる。

教育に関しては、無駄の最たるものかもしれない。大学の設備が無駄に立派過ぎる。ろくに勉強もしないのに高いお金を払って通うのに、何故か大学生はバイトをやる。だったらもう、学校通わずに働けと思う。さっさと働いて納税したお金で国が技術開発の援助を活発に行えば、今のような形の大学など要らないと思う。

見栄や意地の張り合いで、私たちは膨大な資金や労力、快適な生活を犠牲にしているのではと思う。豊かな時代でこそ成り立っていた常識が、今後、どんどん成り立たなくなっていくかもしれない。ただ、成り立たなくなったとしても、さして生活が不自由になる訳でも無い。そういう、有っても無くてもあまり変わらない消費が私たちの周りにたくさんある。

別にやらなくていいことで溢れている

これからの時代は、付け足すことではなく省くことで発展していくように思う。今までやらなきゃいけなかったものが見直されて、別にやらなくてもよくなっていく。企業の収益が増えるというより、働いている人ばまともな生活をできるようになっていく。人が人らしく生きられることで、世の中が生きやすくなっていくのではないだろうか。

発展の余地がある内は、働けば働くほど成長できた。収入も増えたし、会社も大きくなった。しかし今では、毎日残業で当たり前で、死ぬほど頑張っても会社は大きくならない。死ぬほど頑張ることが普通になりすぎてしまったせいで、家族と過ごす時間、恋人と過ごす時間、何かを考える時間を失ってしまったように思う。

IT業界にしても、SIerがやたらと非効率なドキュメントを書きまくっている。あれも、本当のところ対お客さん向けの何かあった時用の担保だろう。本来なら、ドキュメントとはどうあるべきか考えて書くくらいの能力は持ち合わせているはずだ。

特にやらなくてもいいことに、多くのものを費やして失い続けている。まずは、自分が損をしていることに気づくべきだろう。最近では、実は利便性を追求した二十四時間営業の店舗の営業時間が見直されつつある。流れとしては、必ずしも悪くもないように思う。

利便性と満足感の代償

日本製品の検品というのは非常に厳しい。ちょっと傷があるだけで部品を交換、もしくは破棄。使っていたら三日で傷がガリガリ入るような製品でもだ。江戸時代くらいでは、徹底したリサイクルで社会を形成していた同じ民族とは思えない。どうしてこうなったのか理解に苦しむ。

今更、追求してきた利便性を全部捨てて、江戸時代くらいの生活に戻れという訳でもない。日本人が伝統的に受け継いできた、建築技術にしても、近年その有用性が見直されつつある。鉄筋コンクリート製のビルの寿命がだいたい50年くらいらしい。一方、日本の文化財の木造建築は1000年の時を経ても今なお強度を保っている。

建築にしても、以前では考えられない速度で建物が建つようになった。しかし、その欠点も最近は露呈してきている。ただ、時間をかけて分かったのは、急いで雑に作ったものは長持ちしない。それだけの簡単なことだ。鉄筋コンクリートだろうと木造だろうと、相応の手間をかけたものは相応の期間、使い続けることができる。

これからの自分たちに必要なのは、そんな簡単な事を意識して生活する。まずはそのくらいで十分だ。利便性や「こうあるべきだ」という無茶な願望を現実に押しつけてはいけない。どこかでしっぺ返しがくる。エンジニアなら簡単に理解できるはずだ。短納期で作ったシステムは多くの欠陥を抱え、採算と保守にしっぺ返しがくる。

IT業界にクソなシステムがあふれているのも、決してIT業界の腐敗だけが問題ではない。人の考えの流れで、必然的に起きている現象だろう。これを変えたければ、一人一人が考え方を改める以外、方法はないだろう。でも実現できたら、子孫たちに誇れるような素敵な未来になることだろう。

Comment(2)

コメント

ツーレツ

いつも楽しく読ませてもらってます!

特にAnubisさんの記事が更新されてる日は当たりだな!なんて思いながらいつも噛みしめるように読んでいます。

今回も楽しく読まさせて頂いていのですが、いつもと違ってちょっとした違和感を抱きました。

このままスルーしたほうがよいのかなんて思いながらも、せっかくコメント欄があるので思い切って投稿させて頂きます。

まず最初の違和感。冒頭で自動販売機の話がでているようですが、こちらの話、要は無駄なものは無くした方がよいよってことの前振りですよね。

クソ暑い日にスーツも無駄だというのも、無駄はなくそうという前振り。

しかし、最後の最後の結論としては「手を抜いて作ったらロクでもないものができるからちゃんと作ろうね」というふうに捉えられます。

ここが最初の違和感。

無駄なものは無くそう無くそうといいながら、最後にちゃんと作ろうねと言われても少し肩透かしをくらった感じです。(^^;

そして2つ目の違和感。

冒頭での自動販売機は無駄だという例え話ですが、自動販売機を製造している会社・飲料を製造している会社・自動販売機を設置している会社、土地のオーナー。そして震災時の自動販売機の位置付け。

恐らく無駄だと言ってるのは、飲料をコンビニ・スーパーで購入している人目線からですよね。

いくら例え話とはいえ、一方からの目線でしか捉えていない例え話では頭に入ってこないうえに、この文章は大丈夫かな?というように後続の文章を読むのに妙な壁を作ってしまいます。

江戸時代の人間と現代の人間でリサイクルの意識が異なるのも「同じ民族で〜」というよりは産業革命が背景にあるというのが一般的な解釈です。従ってここでも同様の違和感。

すみません。長々と書いてしまいましたが今までのAnubisさんの記事と比較すると今回の記事は若干違和感を覚えてので迷惑かと思いましたがコメントさせて頂きました。

今までのハイクオリティの記事が読みたい1ファンの戯言だと思って下さい!

Anubis

> ツーレツさん
どうも、Anubisです。コメントありがとうございます。


ちなみにこのコラムの元ネタはこれ。
https://hana.bi/2012/07/mujica-speech-nihongo/


最近、批判じみた内容が多かったので、別の観点を模索して書いてみたのだが、ご指摘の通りだと思う。
自分の観点を変えるというのは難しいものだと痛感している。


書いていて、どうしても波があるかもしれないが、コラムを読むことで何か考えるきっかけになったらと思います。

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