いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

100人の凡人の納得より、1人の勇気ある一言を選びたい

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聞く価値の無い意見はある

 どんな人にも意見を判断する基準というのがある。ただ、人間である以上、親しさを感じる人の意見を優先したり、立場の高い人の意見を優先したりする。意外とものの聞き方は偏るものだ。平等に意見を聞くには、知性の高さだけでなく精神性の高さも必要だ。

 理論的に・・・といっても、それはアプローチのやり方に過ぎない。理論的、イコール正しいという訳でもない。先に結論ありきでの理論なんていくらでも立てられる。偏った根拠と強引な視点を用意すれば、いくらでも自分に都合の良い結論なんて導き出せる。理論的かどうかより、何を基準に考えているかが大事だ。

 心に響くという基準もいかがなものだろう。心に響いても利益の無い意見なんていくらでもある。感情に訴えるだけのトークで数十万の金が動くケースも見てきた。結果としては、変な満足感に浸って目的は達成できていない。払ったお金に対して、相応の利益は得られていなかった。心に響いても、中身が何なのかが問題だ。

 意見というのは、多くの人から聞けば聞くほど焦点がズレる。聞いた後に反論することで、方向を揃えていく必要がある。ベストな結果を導き出すためには、チェスや将棋のような戦略的思考が必要だと思う。意見の根拠まで確かめた上で、組み立てていかないと結論なんて出せない。

万人の納得を追求する難しさ

 コラムを書く上で、基本的に万人を納得させても意味が無いと考えている。万人が納得するような事を言っても意味が無いからだ。万人が納得するような事をあえて言うなら、「うんこは臭い」レベルの誰しもに通じる共通認識くらいだろう。こういうものを元に話を組み立てることはあっても、これをダイレクトに書くことに意義は感じない。

 自分の主張なんて、十人に一人通じれば上出来だ。前述した通り、理論的な基準で話を組み立てても、心に響くという基準で話を組み立てても、どちらにしても盲点はある。多くの人の共感を誘おうとするほど平凡なことしか書けなくなってしまう。結果、何の面白さも無い凡庸な内容に落ち着いてしまう。こうなるとコラムが成り立たなくなる。

 ただ、仕事等で求められる意見というのは、ほとんどが「万人が納得できるもの」だ。確かに、これを追求すれば安心感は得られるだろう。だが、内容的には「うんこは臭い」レベルの一般論にしか辿り着かない。「鹿のうんこは臭くない!」みたいな、別方面からのアプローチがなかなか出てこない。ましてやフンコロガシみたいに「うんこ食べる虫が実在した!」なんて言ったら、異端視されてしまう。

 コラムに求められているのは、平凡な内容より欲しがってるのはエキセントリックな意見だったりする。さらに突っ込んで言うなら、万人に通用するエキセントリックな意見だったりする。万人に通用するという普遍性と、エキセントリックという偏りを同時に求めてくる。はっきり言って矛盾している。なので、どちらかを捨てて書かないと成り立たない。

人と違う事を言うのは勇気が要る

 人の言葉の力というものは強いもので、100人がYesと言えば、自分もYesと言いたくなってしまう。こういうことが無意識レベルで起きてしまう。100人がYesと言っても事実がNoならNoと言う。これはかなり勇気の要る行動だ。事実に対する相当な確信がないと、頭数に対抗するのは難しい。

 ただ、100人のYesを覆すと言うと凄く困難に聞こえるが、実際のところ、100人も人がいると本音はいろいろだ。本当に確信を持っている人もいれば、利害関係で同調している人もいる。人によっては、「ウェーイ」なノリで意見に乗っかってるだけの人ももいる。100人いるからと言って、盤石な一枚板とも限らない。

 意外とみんな、繋がっているようでバラバラだったりする。人の話を聞く基準を確信というところに置くと、多数決では見えないものが見えてくる。特に、改善とか新規事業とか、今までに前例の無いものをやろうとした時ほど、確信を基準に置いてみると有益な見解を見出だせる。人数の基準が常に正解とは限らない。

 数に対抗する手段には、確信が有効だ。ただ、確信というのは闇雲に盲信している状態ではない。確固たる裏付けがあることが条件だ。確固たる裏付けがあるのであれば、多数決ではなくその裏付けを判断基準に置いてみても良くはないだろうか。また、裏付けについて十分に検証する余地もあると思う。

異論の扱いで分かる組織の体制

 人と違う意見を言おうとすれば、周りに迎合するより多くのものが要求される。意見を言うために必要なものをリストアップしたら、周りに迎合した場合の十倍近くのものが要求される。相手の意見の根拠も把握した上で反論する必要もあるし、その後のプランについても検討する必要がある。これらを周りが納得するだけのレベルで説明できるようにする必要もある。しかも、説得に失敗した時にはリスクも伴う。

 逆に言うと、周りと同じことを言っていれば考える手間が一気に省ける。自分が説明できなくても、誰かが説明してくれるし、自分でリスクを負う必要も無い。多数決で決めると、一定数こういう基準で物事を決める人が出てくる。ただ、これは仕方のないことだ。全ての分野について自分の意見を確立して、説得できるだけの準備をするのは手間が掛かり過ぎる。

 単にその場の思いつきで発した異論や、権威に任せた異論であれば当てはまらないかもしれないが、異論を唱えるには、非常に勇気が要る。異論の扱いを見れば、その組織がどういう考えで動いているかがよく分かる。そもそも、異論すら出ない組織であれば、言論の自由が無いか、誰も考えなくなってしまった組織かもしれない。

 異論を唱えるにしても、最初から確固たる確信を持てる訳ではないし、反論できる訳でもない。出始めで問い詰めれば、数の力で簡単に潰せる。逆に、対話をすることで育てていくことができる。どこが間違っていて、どこが正しいか、話を聞いた上で指摘していくのだ。最近、異論をうまく育てることのできる組織が減ったように思う。ただ、イノベーションはいつも異論から育っていく。異論を潰しておいて、イノベーションを求めるというのも、矛盾しているように思う。

Comment(2)

コメント

user-key.

>異論すら出ない組織であれば、言論の自由が無いか、誰も考えなくなってしまった組織かもしれない。

大概の宗教がそうですね。

昔から、私は10円玉等硬貨は四角と主張しています。(正確には円柱だけど)

ららら♪

意見の内容の話であって、納得する人が凡人かどうかは関係ないのではないでしょうか?

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