いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

もっとカジュアルに反逆を

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ありのままで・・・己を開放しろ!

 ひと昔前のディズニー映画「アナと雪の女王」という映画で「ありのままで」という曲が話題になったのを覚えているだろうか。あのノリでいけば、「ありのまま」 というのが癒し系のワードに聞こえてしまう。ただ、実際のありのままな女性は、スッピンでムダ毛処理無し、ジャージ姿でテレビ見ながら机をバンバン叩いて爆笑してるような、決して美しいとは言えない姿だ。

 ちょっと逆に考えてみよう。ありのままの姿と普段の姿に大きなギャップがあるとすれば、それは大きく取り繕っているということになる。取り繕うにも、無駄に神経使ったり、服装を整えたりと、いろいろと手間がかかる。取り繕うとは、本来の自分と別のことをやり続けることになるので、自分の本当の気持ち、考え方が分からなくなっていく。

 取り繕うことのデメリットは大きい。その場は穏便に済ますことができたり、良い評価を得ることができる。だが、持続性がない。取り繕うことは簡単だが、取り繕い続けるのは難しい。しかも、やればやるほど本来の自分を見失っていく。短期的に見れば特効薬だが、長期的に見れば負債そのものだ。

 こういうデメリットを被らないために、己を開放してみてはどうだろう。自分の気持ちに正直になってみるのだ。例えば、明らかに無理な指示を受けた時に 「できない」 とハッキリ明言してみよう。お偉いさんが理不尽なことや、間違えていることを言うようであれば、 「それは違う」 と明言してみよう。圧倒的不利な状況でも、自分の意見を主張すること。そういう反逆ならあってもいいのではないだろうか。

飼いならされた家畜達であるより誇り高き反逆者であれ

 今の日本の会社、特に大企業では、お偉いさんに楯突くことは反逆行為とみなされる。大げさな表現のように感じるかもしれないが、実際にやってみるとそうだったりする。逆に、お偉いさんに気に入られていれば、無謀な提案や怠惰な勤怠さえ許されてしまう。何をやってるかより、誰が言ったかが判断基準になっているように思う。

 こういう状況に置かれた時に取る対応は二つ考えられる。迎合するか、正論で太刀打ちするかだ。とりあえず、迎合すれば無難に過ごすことができるのと、うまく行けば好きなように振る舞えるようになる。正論で太刀打ちする場合、かなりリスクが高い。自分の言っていることに少しでもミスがあると、全力でツッコまれる。経験則からいうなら、大部分の人が迎合を選んでいる。

 こう書くと正論で太刀打ちすることに全くメリットが無いように見える。だが、スキルを高めるという点においては、かなり大きなメリットがある。正論で太刀打ちしようとすれば、プレッシャーもかかるし、反論に対して適切に返答が求められる。こういうものに対峙した人と避けた人とでは、事実と向き合う姿勢に雲泥の差が生じる。これが、大きなスキルの差に繋がる。

 迎合することで安住は得られる。ミスしてもだいたい多めに見てもらえる。ただし、自分で自分の正しさを証明する強さを失う。その様は、正に飼いならされた家畜と言うにふさわしい。強い者に巻かれてブヒブヒと騒ぐしかできない。エンジニアの役割は事実を見極めて適切に伝えることだ。迎合して事実を捻じ曲げるくらいなら、誇り高き反逆者であれ。

反逆者の勝率

 反逆すれば分かると思うが、反逆の勝率は0パーセントだと考えておこう。反逆する以上、前例の無い行動を起こすことになる。どんなに正論を並べたとしても、一つや二つの穴は必ず生じる。そこに反撃が集中することになる。たとえ正論で論破したとしても、過去の失敗を持ちだされたり、単なる怒号で押し切られるので、事実上、反逆する以上は必ず失敗する覚悟で望む必要がある。

 相手はチートみたいなやり方が使える訳だ。普通に考えて勝ち目は無い。だが、逆に考えよう。チートを乱用してるような状況自体がまともじゃない。そういう状況なので、効率的な作業というのは絶望的だろう。また、革新的な発想なんてとてもできないだろう。誰かの都合でものの見方が捻じ曲げられている。そういう状況でスキルを発揮したところで、大した成果は望めない。

 認められても価値の無い人に認められるより、本物を目指す。それが反逆の意図だ。0パーセントの勝率に望む以上、何が本物かを見極める姿勢が厳しく問われる。自分を押し通す以上、反逆の理由が相手と同じ怠惰さやエゴなら、叩かれるだけ叩かれて、無意味に反逆は終わる。それほどに現実は厳しい。

 勝率0パーセントに挑むのは単に無謀なだけではないか。そういう結論を出すかもしれない。だが、それは違う。負けが確定でも、やることで何が得られるかは別だ。コテンパンに叩かれたとしても、自分として得るものがあるなら、実行する価値がある。むしろ、成功とは何かを消費して得るものだ。失敗から得るものの方が桁違いに大きい。

何かを信じる人にしか反逆はできない

 反逆と言えば、単なるエゴの主張を思い起こす人も多いだろう。だが、単なるエゴの主張では反逆になり得る力は生み出せない。ただの暴動に終わる。本当に反逆したいなら、強く信じる指針が必要だ。そういうものが無いと、行動に一貫性が保てなくなる。歴史を見てもそうだろう。体制に反逆する人たちは、何らかの指針を持って反逆している。

 また、攻撃したいだけの人にも反逆はできない。理論より攻撃が優先してしまうからだ。お互いに攻撃し合えば、反逆というより戦争になる。これをやってもお互いが何かを失うだけだ。自分が何かを得るためにやるのが反逆だ。相手の損失が目的になった時点で正当性は成り立たない。目的を達成しても、「ザマーミロ」という無益な自己満足しか得られない。そこに得るものは無い。

 反逆を肯定する背景は、ポリシーや強く信じるものがあるか。という問いかけだ。何かリスクを負ってでも突き通したいくらい、何かを強く信じたり、自分の決めたものを貫く。そういうことができるかということだ。全ての人にこれを求める気は無いが、無い人より有る人の方が、大きく成長できると思うし、大きな力を持つと思う。

 ただ、最初から何かを強く信じたり、ポリシーを持つことは難しい。万人にそれを求めるのは無理があると思う。しかし、何かを強く信じたり、ポリシーを貫こうとする姿勢はもっと肯定されるべきだ。こういう姿勢を持てる人たちの反逆に対して、対話で解決できるような人になれたら素晴らしいだろう。私はそういう人を目指したい。

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