いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

セミの屍が積まれた庭の片隅で、雄猫が雌猫を追いかけて逃げられた

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■夏の終わりを告げる風景と変わらない日常

 あれだけうるさいと思った蝉たちが、ある時期を境に静かになっていく。夏の終わりを感じさせる空気だ。蝉というのも不思議な生き物だ。何年も土の中にいて、地上に出たと思えば数週間で命を閉じる。飛び回っている蝉より、土の中にいる幼虫の方が蝉の本質なのかもしれない。

 それに対して、猫というのは本当に変わらない。マイペースだ。夏であろうと冬であろうと、何食わぬ顔でいつもの場所でゴロゴロしている。いつの間にか風景に溶け込み、ずっとそこにいたかの様に振る舞う。

 庭の片隅に生えている木の下に、役目を終えた多くの蝉たちが天を仰ぎ横たわっている。その横で猫達の変わらぬ日常。今日もあの雄猫が懲りずに雌猫にちょっかいを出している。移りゆくものと変わらないもの。そんなコントラストを感じた。

■蝉達に自分の姿を重ねる

 そんな風景を見て、ふと自分の身の回りが浮かぶ。夏の終わりを告げた蝉達に、ふと自分たちエンジニアの姿をダブらせてしまう。エンジニアとして活躍するには、バックボーンになる、多くの知識や経験が必要だ。

 土の中にいる蝉達のように、人の目につかないところで知識や経験を鍛えてきた。そんな共通点に、ふと蝉達に親近感を覚える。エンジニアの本質は、活躍している時の姿だろうか。それとも、人知れず知識や経験を積み重ねる、そんな姿なのだろうか。

■猫達に人の世の営みを重ねる

 ただ、エンジニアの本質とは関係なく世の中は動く。国という単位では大きすぎて逆に見えなくなる。会社という単位でも視界に収まりきれない。見えるとするなら、お客さんと、そのご機嫌取りに奔走するプロジェクトマネージャくらいだ。

 彼らにとっては、エンジニアの本質などどうでもいい問題だろう。ただ、お客さんと利害て繋がっていること。その方が大事だ。技術と向き合っていると、その世界がすごく遠いもののように思えてしまうことがある。

 役目を終えた蝉達の世界と、猫達の世界。その大きな隔たりに似たものを感じた。同じ部屋にいて、お互いの声も聞こえる距離なのに、全く違う理屈で動いている。一つの庭という空間、そして部屋という空間。いろいろな世界が、その狭い空間に混在しているのだ。

■もし神が人を見たらそう見えるのだろうか

 ここでいきなり、神なんて存在を語りだしたら変に見られるかもしれない。でも、神がいたとして、いや、神と言えば大げさ過ぎる。客観的な立場で状況を見れる人がいたとしたら、私たちがどう見えるのだろうか。

 部屋の隅で疲弊してうつ伏せるエンジニア達。その横で、なんとかお客さんに取り入ろうと手を尽くすプロジェクトマネージャ。気まぐれに話の核心を逸らし続けるお客さん。もしかしたら、私が庭先でみた風景と同じことを感じるのだろうか。

 当人達にすれば、それぞれの世界に大きな距離を感じる。しかし、第三者からみれば、それは目と鼻の先で起きている。理窟ではなく、それを実感できる。もし私が、第三者の視点でみれれば、この隔たりを乗り越える超えることができるのだろうか。

 人との距離を縮める鍵、そして相手を理解するための鍵。それは第三者の目線なのかもしれない。相手の距離が縮まれば、それだけ相手がよく見える。相手が理解できれば、避けられる争いもあるのかもしれない。何気ない風景を眺めて、そんなことを考えていた。

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