天才のぶった切りかた
■天才をぶった切るのは簡単だ
この前、たまたま手塚治虫の書いた漫画を読んでいた。手塚治虫といえば、現代の漫画に大きな影響を与えた人物と知られている。また、数々の逸話があって、同時進行で何本も漫画を連載したり、揺れる車内でもまっすぐ線を引ける。などなど。
読んだ漫画が面白かったので、ちょっと気になってネットでレビューを見てみた。手塚治虫の書いた作品といっても、どちらかと言えばあまり注目されていなかった作品だ。まぁ、これに対する酷評というのが凄かった。
手塚治虫という天才であっても、手の出せない距離からならいくらでもぶった切れるな。そう思った。
■最初に公開するということ
コラムにしても、漫画にしても、最初に発表するというのはなかなか骨が折れる。まったく道のないところに道を作っていくのだ。たまにでっかい障害物にぶつかって、ウンウンと悩むこともある。そうやって、紆余曲折を経て完成させて公開される。
ただ、作り出す労力に対し、消費する労力は軽微なものだ。例えば、2時間かけて書いたコラムでも十分もあれば一通り読める。漫画にしても同じだ。そして、読んだ人は自分の感性を基準に好き放題言うことができる。批判すら出ないような素晴らしいものを常に書ければいいのだが、そんなものは100本書いて2~3本書ければいい方だ。
何かを公開するというのは、野にさらすのと同じようなものだ。常に風評という厳しい風雨に耐えなければならないのだ。
■後出しは強い
コラムや漫画だとなかなか実感がわきづらい。これが、作成したドキュメントやコードのレビューだったらどうだろう。体験したことのある人なら分かると思うが、ドキュメントやコードのレビューをすると、これでもかというほどチェックや追及が入る。
ここでよく考えてほしい。ドキュメントやコードも、コラムや漫画と同じだ。書いたものに対して第三者は好き放題言いたいことを言える。実際、レビューを行う側と行われる側には、大きな労力の差がある。はじめから納得のいくものが書けるのであれば、わざわざレビューなんて行為はいらない。それを忘れて、好き勝手にたたく人は多い。これに立場の差が加われば、十分に正論をねじ曲げる力を持つのだ。
実際、立場が上の人が書いたドキュメントやコードを、下の人がレビューすることは希だ。それを私はやったことがある。実力に大きな差があったとしても、レビューに対して正論で抗戦するのは相当骨が折れる。正論を言っているつもりで、実は権力で押し通していることも多いことに気付く。
■超能力的な批判のセンス
現代の日本人は、超能力的なほど優れた批判のセンスを誰もが備えている。どんなに素晴らしいものでも、自分の価値観に当てはめて欠点を見つけ出す。その欠点に対して、自分の価値観を元に即座に理論を組み立てる。努力しなくても、いくらでも天才をぶった切ることができる。
ただ、価値観が歪んでいなければ、ただの批判ではなく的確な改善案が見出せる。ベクトルが短所から長所に向かえば、冴え渡るアイディアが浮かび上がるきっかけになる。批判というと汚いが、その裏側には輝く才能が眠っていると考えている。
たいていの人は、持ち前の批判能力を発揮すると「俺って天才!」と自己満足に浸る。確かに天才を難なくぶった切るのだ。ある意味、天才を超える天才っぽい。自己満足に浸るための十分な裏付けになる。だが、そういう才能を発揮しても何も生み出さない。実際は圧倒的に有利な立場だからこそ、心置きなく批判ができるのだ。
ドキュメントやコードをレビューする時は気をつけてほしい。超能力的な批判のセンスを発揮することに喜びを感じていないだろうか。その喜びに溺れていては、その先の問題解決、冴え渡るアイデアにはたどり着けないだろう。気を付けていきたいものだ。