いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

書いてきたコラムがいよいよ数えきれなくなったので、振り返ってみた

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■私がコラムを書き始めた理由

 コラムを書き始めた理由。それは、死んだ親父が技術系のライターをやっていたからだ。親父は仕事熱心で、あまり家に帰ってくることはなかった。幼かった私にあまり構ってくれなかったことを、当時は疎ましく思っていた。と同時に、仕事をやり終えた時に見せるさわやかな笑顔に、淡いあこがれも抱いていた。

 そんなある日、親父は嬉々として家に帰ってきた。

「これはすごい!日本のIT業界を変えるくらいの大発見かもしれない!!」

親父は興奮していた。そして、仕事部屋に何日も籠り続けた。そして親父は書き上げた。日本のITを変える。とやらの原稿を。

 その翌日だった。親父が車にはねられて命を落としたのだ。別に感傷に浸りたくてこれを書いたのではない。父が車にはねられた現場から、原稿が消えていたのだ。今となっては何が書かれていたのか分からない。そして、誰が原稿を持ち去ったのかも分からない。

 私がコラムを書いているのは、そんな親父の意志を継いでという訳ではない。持ち去られた原稿に何が書いてあったのか。今となっては興味も無い。しかし、ただ一つ気にかかることがある。父が命を落とした現場に残された一枚のメモだ。親父が最後の命の燈火が消える前に書いた一言。

「Ping 打て」

その意味を知りたくて、今、私はコラムを書いているのかもしれない…。

■なんて理由でコラムを書いている訳じゃない

 私がコラムを書き始めたのは、ただなんとなくだ。別に訴えたいことがあった訳でもない。ちなみに現在、親父は元気だ。定年過ぎてから急に活き活きしだしやがって…。会社勤めの時には見せたことの無いような笑顔を見せるようになった。

 そんな親父は、某有名企業で物書きをやっていた。一応、文を書く習慣を付けようか。くらいのノリで初めて、よりうまい文章を書くには。そんな練習くらいのノリでコラムを書き続けている。今思えば、親父の影響をモロに受けただけかもしれない。

■コラムが書けるかは思いの強さではない

 私がコラムを書いていて思うことがある。思いの強い人ほど、書き続けることは難しいと思うのだ。訴えたい事を書くことを優先すると、一つのコラムにあれこれと詰め込む傾向が強くなる。当然、詰め込みすぎると内容がまとまらなくなり、完成度が落ちるのだ。

 そんな経験を繰り返すと、何かが疲弊していく。そして、ネタが浮かばなくなるのだ。自分の文章力と相談して、確実に伝わる言葉を選んでいく。内容も大事だが、正確に伝える努力をする方が大事だと思う。完成度の高いコラムを書くと、内容がつまらないものでも次へのモチベーションが保ちやすくなる。そして、技術も上がっていくのだ。

■これは成果物も同じかもしれない

 この、小さな完成を積み重ねることは、意外と軽視されてはいないだろうか。一つのシステムを構築するにしてもそうだ。最初は、誰にでもできるレベルのシステムを構築して、しっかりと動きを確認していく。確実に理解した段階で、次のステップに移っていく。いきなりすごいことをやろうとしても、空回りしてうまくいかないものだ。

 初めは思うようにうまくいかない。うまくなるのに時間がかかる。これはコラムも技術も一緒だ。初めから成果物に照準がいくと、続けるのがしんどくなりやすい。確実に成果が出ることの方が、確率的に少ないからだ。最初から、うまくいくはずの無いものに挑むのだ。もっと肩の力を抜いて向き合っていくと、意外とうまくいくんじゃないかと思うのだ。

 世の中、歪んだポジティブ思考があふれている。冒頭に書いた、ドラマティックな理由なんて無くてもいい。自分のできることを淡々とやっていれば、自分にふさわしい成果なら簡単に得られるはずだ。学生時代、国語の成績はずっと赤点スレスレだった。そんな私でも三年近くもコラムを書き続けられたのだ。振り返ると、意外な成果が残っていた。

※なんか早朝目が覚めたので、ノリで一本書いてみた。これがホントの"朝飯前"というやつか。

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