くたばれコミュ力
■和をもって尊しとす
むかし、聖徳太子がこんなことを言ったそうだ。そう歴史の教科書に書いてあったような、なかったような。日本人の特徴を表す言葉として引用されたりする。日本人は協調を重んじる……、と言われるが、どうなんだろう。
日本では、技術者にしろ営業にしろやたらとコミュニケーション力が求められる。しかし、実際にコミュニケーション能力が高いと言われる人を見ると、何か釈然としない。コミュニケーション力というより、単なる無難な人だ。
皮肉を込めて言うなら、コミュニケーション能力の高い人イコール「ぼくを傷つけないでね♪」というお願いを聞いてくれる人。そう思えてならない。こういう人を求める会社というのはどうなのだろう。ただの馴れ合いだ。組織としては当然、弱くなる。
■コミュニケーション能力の強さ
そもそも、仲が良い同志で、コミュニケーション能力が発揮されるはずがない。仲が良ければ、何もしなくても意思疎通は簡単だ。同じような考えの人同士でも同じだ。コミュニケーション能力が発揮されるのは、嫌いな人や考えの違う人と向き合う時に発揮されるものだと思う。
お互い殴り合うくらい仲の悪い人とでも、お互いの意思疎通ができる。こういうのがコミュニケーション能力だと考えている。人間関係に波風を立てない能力ではない。波風立ってもコミュニケーションをとれるようにする能力じゃなかろうか。
実際、業務をやっていても意見の食い違いなんていくらでも発生する。人間関係に波風立てない選択を選ぶようではプロ失格だ。波風立てても、最良を目指して判断できるのがプロだ。
■しかし、言うほど優しいもんではない
さらっと正論っぽいことを言ってみたがどうだろう。今書いた事をそのまま実行れば、きっと総スカンを食らうことは間違いないと思う。
実行するとすれば、まず自分の感情をコントロールできなければまず無理だ。プラス、自分に正当性も必要だ。対立してでも押し通したい意見がただのわがままなら、返り討ちにされて恥ずかしい思いをして終わるだけだ。
コミュニケーションと言ってもさまざまなので、私の考えるコミュニケーション能力がすべてではないと思う。しかし、仕事で結果を出すためのコミュニケーション能力となれば、バックボーンに多くのものが求められるのは間違いないと思う。
■コミュニケーション能力は言うほど必要でない
結局、コミュニケーション能力より大事なのはそのバックボーンにある、正当性、理論性、冷静さ、観察力、自己制御能力などだろう。逆に、こういうものがそろっていれば、勝手にコミュニケーション能力はついてくると思う。
どうだろう、嘘を言わない。落ち着いて理論立てて話す。物事をよく見て判断する。自分の言うべき時にものを言う。そういう人だったら、別に何もしなくてもコミュニケーションは円滑に行えると思う。こういう要素が無いままで人と仲良くできても、大した利益もないと思う。
また、私たちは自分たちより優れた人間の考えを理解することは難しい。自分から理解しようとしなければ、より高度な考えを理解することはできない。少なくとも、相手が自分に合わせてくれるような、そういうコミュニケーション能力ばかり求めていては、成長は望めないだろう。
コミュニケーション能力は包装紙みたいなものだ。そこに本質はない。本質はそのバックボーンにあるものではないだろうか。