いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

そこまでして天才と呼ばれたいか

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■才能を語る時点で負けだ

 戦況が不利なほど飛びぬけた能力が求められる。私はそう思う。いや、戦況が有利な時も求められるじゃないか、という反論がきそうな気もする。でも、戦況が有利なときは、1人の突出した能力より、全体のベースアップがクローズアップされる。

 そんなベースアップを考えてる時に、才能なんて発想が出るだろうか? あんまり出ないと思う。考えてみれば、才能ってかなり都合のいい考え方だよね。最初から優れてると。ごく稀に、ギャンブル的な要素で発生するものだ。

 普通、農作物のように育てて手に入るようなものが、偶発的な理由で備わっていてほしい。都合のいい考え方じゃないか? 人は不利になるほど都合の良いことばかり考える。才能を語る時点で負けだ、と言いたい。

■天才に大した価値はない

 天才は何かと、たいそう価値があるように語られる。しかし私はそれを真っ向から否定する。強い否定の意志をこめてこの一句を詠んでおく。

 天才も アホが仕切れば 地に堕ちる

 勘違いしないでほしい。天才は発展への保障ではない。天才と救世主を混同するのはやめよう。単に、優れた能力が状況の打破を押し付ける理由にならない。

 「一騎当千」なんて言葉があるが、しょせんは1人。よく考えてみよう。逆に、1人やられれば一気に千騎を失う計算になる。かなりリスキーだ。天才を仕切るには、その価値が的確に分かる秀才以上でなければ、有効活用は難しい。結局、チーム全体が優れていないと、天才を活かすのは難しい。天才に救世主的なものを求めるなら、その価値は発揮されることはないだろう。

■君に天才を語らせない

 なぜ天才を語らせたくないか。それは、天才を理由に人を切り捨てる人がいるからだ。優れる人に価値がある。という理論がいつしか、劣る人には価値がない。という考え方に摩り替わっていないだろうか。それだけではない。実力の劣る人を正当に攻撃する理由されることもある。

 能力が人を自由にできる権利だと思っていないだろうか? 能力は欲望をかなえる手段と考えていないだろうか? 人を傷つける正当な理由になどなりえない。天才を求めるのは勝手だが、同時に劣る人への配慮を忘れてはならない。ここを怠ると、将来に開花するべき才能さえも摘み取ってしまう。

 そもそも、自分たちの思い描くレールの上を走ってくれる天才などありえない。そんなレールを踏み越えて能力を発揮するくらいのレベルになって、初めて天才と言える。天才とはこうあるべきだ、こうすれば天才になれる。歴史的に見れば、こういう凡人の発想を天才たちはいともたやすく覆している。

 そういう理由で、天才を語ることに価値を見出せない。

■打開策に都合のいい方法はない

 それでも世の中は天才を求めてやまない。いろいろな企業の採用条件を見ても、全部できたら天才だよ! という条件も少なくない。普通に業務をこなすだけでも超人的な能力を求められる。現実的には、ごまかしながら仕事をしている人がほとんどだろう。

 この状況を覆すのに必要なのは、天才の登場ではなく、負債の解消だ。負債の解決方法も、才能の開花で劇的に解消!なんて都合の良いことを考えてはいけない。どのみち才能を開花させるにも、地道な努力は必要だ。

 そもそも、目指すべきは天才よりも精神的な成長だと思っている。実際のところ、優れた才能を開花させなくても、身の回りのことをきちんとできるだけでも十分に幸せになれる。身の回りの整理整頓がきちんとできる、うそをつかない、人を思いやることができる……、天才になる条件より、幸福になる条件の方が緩いと思うのだが。

 君が目指すのは天才か? 幸福か? 2つは必ずしもイコールではない。そこはきっちりおさえておこう。

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