いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

悶絶。

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■心にも痛覚はあるのかもしれない

 例えばだ。足の小指を机の角に思いっきりぶつけたら、相当痛い。人間というのは不思議なものです。足の小指という、身体のほんの一部分をぶつけただけで、痛みに悶絶する。小指の痛みを全身が共有しようとしているのか。なんと思いやりの深いことだろうか。

 同じように、心にも痛みというのは存在すると思う。言いわけのしようのない痛恨のミスをしたり、しょうもない勘違いで人に迷惑をかけてしまったりと。そんな時、心に痛さというのを感じる。ちょうど、小指を机の角に思いっきりぶつけたような痛みだ。生活が脅かされるわけでなくても、身体が傷つくわけでなくても、悶絶するしかないのだ。

■そう、私はやってしまった

 そう。そんなことでちょど私がやってしまいました。痛恨の勘違いを。これは良かれと思ってやったことが全て裏目にでた。しかも、言いわけの余地もない。相手の指摘で初めて気付いた。言い訳の言葉すら浮かばず、呆然とするしかないのだ。

 別に仕事のことではないので、これで生活が追い詰められるとか、そういったことはない。しかし、何というのか、1つの道を進む、プロに対してやってはいけないことをやってしまったようです。謝罪はしたが返答もなく、言いわけの言葉すら浮かばず、ただ行き場のないがっかり感を噛み締めている。

■あえて悶絶するという選択肢

 こういう重大な精神的なダメージを折った場合、どうするだろうか。エンジニアなら、対策うんぬん、今後どうするとかそういうことを考えるかもしれない。しかし、私はあえて悶絶するという選択肢を選ぶ。

 なぜか。ダメージが精神的なものに限られるなら、しっかりとそれを受け止めるべきだからだ。かなりしんどいけど、ここでダメージをかわしたら精神的な成長が伴わない。きっとまた似たような事をやってしまうかもしれない。

■迷惑かけたあとの処理

 仕事で立場があれば責任を転嫁したりできる。頭が良ければ、いろいろ理論をこねて責任の追求から逃れる事も可能かもしれない。確かにその場は最小限のダメージで済むが、長い目で見ると、同じ事を繰り返し易い。

 自分のやったミスって、なかなか認めたくない。それでもきちんと認識しなければならない。ここはもう、理屈ではなく精神的な部分だ。今まで理屈で煙にまいてきたことも多かったかもしれない。己を省みようと思い、このコラムを書いてみた。

 あわよくば、私が不快な思いをぶちまけてしまった方がこのコラムを奇跡的に読んで、謝罪の念が伝われば。そんな淡い期待を抱いていたりもする……。

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