いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

カタログ値と競争力

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■値を出すということ

 携帯電話でもパソコンでもそうだが、性能を表すのにメモリの容量、CPUの性能などを記載する。その延長線で、製品のうたい文句にこういう性能を表す表記がついているのをよく見かける。あとは化学物質の名前だろうか。ヒアルロン酸やらなんやらと。最近のニュースじゃ放射能の単位もいろいろ出てくる。

 人はいつから、こんなにも数値や科学部質の名前を出すのが好きになったのだろうか。あれで理解している人はいるのだろうか? 率直なところ疑問だ。

■数値を見て思い出すもの

 それはずばり、ゲームだ。これほど数値化されてわかりやすい世界はない。HPが0になれば死ぬ。MPが0になれば魔法は使えない。武器や防具の性能は全部数値化されている。キャラクターのステータスを見れば、正にどっかの製品のスペック表そっくりだ。

 待てよ。これって、私たちの物の見方がゲーム的になってきているということか? しっかりと現実を見つめてるつもりで、実はゲーム的な物の見方になってただと? 何か釈然としない。

■ゲームのやりすぎと同じじゃないか

 ゲームをやりすぎて現実と混同している人が批判されるのをたまに見かける。現実を見ないで夢見がちなことを語るのが滑稽に見えるからだろうか。そういう人たちと、何処ぞのお偉い方々とダブって見えてしまう。

 ダブる理由は、情報に流されてしまっているという部分です。確かに、ゲームの内容と、事実を元にはじき出したデータは根本から物が違う。しかし、現物に触れずに判断するというのは双方とも同じだ。そこに何か足りなさを感じてしまう。もっとも、ゲームの場合は現物が存在しないので触れようがないが。

■つまり、きちんと物を見て判断するべし

 情報とは一種のスナップショットだ。物事の一面は正しく映し出すが、全てが映し出される事は無い。より多く知るためには現物を見たり触ったりする必要がある。

 この認識がない人が増えたように思う。しかも、企業や組織のトップに立つようような人に多くなったのではないだろうか。より多く知るためには現物を見たり触ったりする必要がある。情報という一面しか見ずに、正しく物事を判断できるのだろうか。一面しか見ずに、すべてを知ったつもりで判断を下したらどうなるだろうか。考えると怖い。

 本来、繊細に物事を見ることは日本人の得意とするところだったはずだ。データに依存しすぎて、ここら辺がどんどん退化してるんじゃないだろうか。効率化することが競争力をつけることではない。ここら辺の繊細さも競争力に繋がると思うのだが。もったいないことだ。

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