同じ穴のむじな
■最近、仕事をしていて思ったこと
最近、気になることがあります。私の会社では、人を褒めるということがないのです。
話に聞くところによると、会議なんかでは罵倒は日常茶飯事だそうで。仕事の管理も適当で、なぜこの立場でこの業務をするのか? というような、不思議な業務配分があったりします。
そんなことなので、うちの先輩方は、業務の取り仕切り役の方へ非難ごうごう。まぁ、そりゃ当然だと思う。私から見てもひどいもんだ……。
■なぜだろう、似てしまうのは。
そんな、いやな醜態を見ながら毎日仕事をしているわけです。普通なら、“あんな風にはなりたくない!”とか、“これじゃだめだ!”と思って、努力をするわけですが。いや、うちの先輩方も努力はしています。
しかし、何でだろう。なんかやってることが、罵倒が飛び交う会議を彷彿とさせるような対応だったり、「その状況でそれをさせる?」みたいな指示が多かったりするんですよね……。
自分がなりたくない人、そのまんまの雰囲気をかもし出してしまってるんですよね。
■そしてわが身を振り返る
まぁ、そんなことで、うちの先輩ときたら……みたいな話をしたいところだが、それどころじゃぁなかったり。実はそんな私も、その先輩と口癖がまったく同じだったりする。
その他に、その先輩と話していて、心の中で“本当にこの人、話聞いてないよなぁ……”なんてふと思ったりするのだが、実はこの一言、以前、私が友達によく指摘されていた一言だったりする。
ふとわれに返ると、なにか鏡に写した自分がいるようで、ドキッとするのだ。
■似ているから集まるのか、集まるから似るのか
これは持論だが、似たもの同士は集まりやすい。そう思う。いろいろな大きさの粒が混じった砂を、水の入ったペットボトルに入れて、思いっ切り振ってみる。しばらく放っておくと、大きい粒は底に沈んで、小さい粒は上の方に積もる。どうも、人間も同じっぽい。
まぁ、素晴らしいと言われる人たちの集まりに入れればいいが、変な人の集まりに入ってしまったら、自分は変な人なのか? ということになる。認めたくないが、答えは“Yes”だろう。そして、変人の集まりにどんどん自分が同化していき、いつしか自分もああなってしまうのではないか。そんな恐怖と戦い続けることになるのだろうか。
なんか、自分のいる場所によって運命が限定されるようで、心地いいものじゃあない。
■そこで1つ、発想を転換する
じゃぁ、どうすればいいんだ。ということで1つ、別の発想で考えてみる。どんな人の集まりにいるかではなく、そこにいる人、1人ひとりを理解する努力をしてみてはどうだろうか。
どんなに理不尽に見える行動にも、必ず理由がある。場合によっては、自分の思考より高度な考え方が背景になっていることだってある。そもそも嫌悪というものは、相手が理解できない時に起きる。相手が理解できると、多少のことは気にならなくなってしまう。
相手の短所ばかり見ると、無意識に相手の短所をまねてしまう。そんなことより、相手の長所を見つけて、賞賛して、大いにまねようではないか。これができれば、きっとどんな状況にいても気分は花園だろう。そうありたいと思い、日々がんばっている今日このごろです。