【小説 エンジニアの事故記録】第八話 事故処理
幸一郎から見て前方に停車していた車のバンパーは、微かに凹んでいた。
人通りが多く徐行運転をしていたため、衝突時の衝撃はわずかだが事故は事故だ。
幸一郎は追突事故を起こしてしまっていたのだった。
何とぶつけた相手の車は、黒塗りのベンツだった。
バッチのことを考えていて運転が上の空になっていた--
全ては不注意が原因だった。
「あーあ......」
助手席に座っている渚沙が、諦めきったような呆れたような溜息をついた。
「どうしよ、どうしよ......」
ベンツにぶつけて慌てふためいている幸一郎に、助手席の渚沙はこう言った。
「とりあえず、降りて謝らないと。こっちの前方不注意だったんだから」
「う......うん」
ドアを開けようと取っ手に手を掛けた時、前の車の運転手がドアを開けこちらに向かってきた。
遠目からだとスーツを着たサラリーマン風だが、近づいて見ると、目つきは鋭いというか喧嘩っぱやそうだ。
整髪剤で固めたであろうオールバック。そして襟足が長めの髪型と、金のネックレスが印象的だ。
はだけたYシャツの胸のところに、何かの模様が見える。
さすがに空手経験者である幸一郎も、その出で立ちにすくみ上った。
窓をコンコンと叩かれ恐る恐る開けると、その男は車内に顔を差し入れるようにしてこう言った。
「われ、なにやっとんじゃ!」
「はいっ......」
「すいません! 私たちが悪いんです! ほら! 早く車を脇に寄せて停車してよ!」
何もできない幸一郎をフォローしながら、彼に代わって渚沙はすかさず謝った。
車を左側の路肩に寄せ、ハザードランプを付けて停車させた。
男の車と幸一郎の車が路肩に縦列駐車したような形になった。
「凹んじゃったなあ」
男はしゃがみ込んでベンツ後部のバンパーをさすりながら、呆れたように言った。
雨は小雨になっていた。
その様子を見た渚沙は、男に傘を差しだし、雨に濡れないようにした。
「お、ありがとな」
上目遣いに渚沙を見上げた男は、笑いもせず礼を言った。
「大丈夫ですか?」
渚沙は男が怪我をしていないか問い掛けたが、男はその質問には答えなかった。
ずっと、車のバンパーの様子を見ている。
二分くらいそうしていると、男は不意に幸一郎の方に詰め寄ってこう言った。
「おい、わしはちゃんと停車してたよな! お前の車が突っ込んできたんだろ!? な?」
「は......はい」
幸一郎は強面の男に詰め寄られ、なすすべも無かった。
全ては自分が悪いのだから、言い訳の余地も無い。
それにしても、ぶつけた車がベンツで、乗ってた方が強面の男性だったというのは不幸中の不幸でしかない。
「弁償してくれるんだろうな!? おお!?」
周囲の歩いている人が、何事かと振り返る。
だが、誰もフォローに入ってくれなかった。
「あの、事故処理のために警察呼びますね」
渚沙が二人の間に割って入り、スマホで警察を呼んだ。
幸一郎は車の運転をして五年目だったが、事故を起こしたのはこれが初めてだった。
事故処理と言うものをしたことが無く、そのせいでどうしていいかオロオロしていたというのもあるが、初めての相手が相手でもあった。
渚沙が警察を呼ぶという提案に、男は特に異論を唱えなかった。
やることをやっていれば、特に文句は無いのだろうか。
「お前、女に全部、処理させて恥ずかしくねえのかよ」
男は幸一郎を睨みつけながらそう言った。
事故当事者である幸一郎は慌てるだけで何もできず、代わりに渚沙が男の体を気遣ったり、警察を呼んだりしている。
男にもそう言われ、自分でもそう思った幸一郎は、自分の情けなさに泣き出しそうになった。
まもなくして、警察車両がこちらに近づいて来た。
こちらに来ると思ったが、手前の交差点で左折して別の方角に向かって行った。
「私、呼んでくる!」
恐らく、暗くてこちらがよく見えなかったのであろう。
パトカーの中にいる警察官は、こちらを見ることも無くゆっくりと左折して行った。
別の方角に向かって行ったパトカーを渚沙は追いかけて行った。
「あ......」
幸一郎は手を伸ばし渚沙を引き留めるような仕草をしたが、すぐに思いとどまった。
男と二人で取り残されるのが酷く不安だった。
出来れば彼女にもここに居て欲しかったが、そうもいかない。
幸一郎はこの気まずい雰囲気を変えたい一心で男に声を掛けた。
「すいませんでした。怪我はないでしょうか?」
「おお! 首が回らねえよ! 慰謝料たっぷり貰わねえとな!」
「ええっ!?」
「冗談だよ。めっちゃスピード出てなかったし軽く当たっただけだろ」
人通りの多い道路で徐行していたし、直前で気づいてブレーキを掛けていた。
男の方も停車していたので、お互いの衝撃はそれほど少なかった。
これこそが不幸中の幸いだった。
「兄ちゃん、情けないねえ」
「はい」
「そんなんじゃ、振られるよ」
もう振られているのだが、改めて言われるとこたえる。
渚沙がテキパキ動いているせいか、心なしか男の表情も少しづつ柔らかくなっているようだ。
自分一人だけで事故を起こしていたらと思うと、ぞっとする。
三分後くらいに、パトカーを誘導しながら渚沙が戻って来た。
手には何故かコンビニの袋をぶら下げている。
パトカーは幸一郎と男の車の後ろに停車した。
「お待たせしました」
六十代に近いくらいの白髪の警察官が降りて来た。
顔がしわくちゃで色黒なので、田舎の気さくな農家のおじさんと言った感じである。
「事故は何時ごろ、どのあたりで起こしましたか?」
「はい、わたしの車が、あの......どうだったかな?」
まだ動揺している幸一郎は、しどろもどろに答えた。
事故のショックで、当時の記憶が曖昧だ。
「事故は21時40分頃だったと思います。私たちの乗った車が、あのベンツに追突して......。場所はこの道路でここから20メートルくらい後ろのあたりです」
「はい。なるほど」
慌てて答えられない幸一郎の代わりに、渚沙が冷静に全部説明した。
「で、なんで事故を起こしたんですか?」
「こちらの前方不注意です」
「はい。なるほど」
渚沙の証言を聴き取り、その内容を書類に書き留めている。
男は何も言わずにそのやり取りを見ている。
警察官はメジャーを取り出すと、地面から男の車の凹んだ部分の高さを測った。
続いて、同じように幸一郎の車に対しても、地面から車の凹んだ部分の高さを測った。
「なるほど。確認できました」
幸一郎もなるほどと思った。
こうやって、事故車両同士が、本当に事故を起こしたかどうかを確認しているのだろう。
双方の車の破損した部分の高さが同じであれば、お互いの証言の証拠にもなる。
警察官があれこれ調査している間、渚沙はコンビニの袋から缶コーヒーを取り出し男に渡した。
「お、気が利くな」
渚沙は、幸一郎にも缶コーヒーを渡した。
その優しさに安堵し、惚れ直しもした。
(僕の彼女だったらなあ......)
しかし、その彼女は「小山の彼女」らしいのだった。
そして、調査を終えた警察官にも渡した。
「いえ、私は大丈夫です」
と断った。
やはり、物を貰うのは立場上、良くないのだろう。
「んじゃ、車検証を見せてください」
車のダッシュボードから車検証を取り出し、警察官に渡した。
今年車検だが、この事故の修理で高くつくんだろうなあと思うと、憂鬱になった。
「あとね、この書類に名前と住所と勤務先を書いてください。同乗者の方もね」
さすがに、渚沙が書類に自分の名前と住所そして、勤務先を書いている姿を見た時は、自分の不注意でこんなことに巻き込んだことを申し訳ないと思った。
そして次に、男にも必要な情報を書くように警察官は依頼した。
書面に視線を落とす渚沙の横顔を見て、警察官はこう言った。
「あなたお酒飲んでますね?」
今までの比較的柔らかい態度が一転して、硬い感じの声と態度になった。
この警察官は、渚沙が車を運転していたと疑っているのではないかと幸一郎は思った。
飲酒運転を隠すために、幸一郎が渚沙をかばっているのではと、疑っているのだ。
「これは僕の車です! 彼女は関係ありません!」
後に振り返ると、この反論だけが、幸一郎がこの場で唯一見せた男らしさだったとも言える。
「なるほど......」
だが、警察官の声はまだ緊張を込めたままのもので、目は渚沙の方を見ている。
彼女はその疑いに満ちた視線を感じ、表情を硬くした。
そして渚沙が反論しようと口を開けかけた時、そのやり取りを見ていた男がこう言った。
「そこのねえちゃんは、助手席にいたよ。ぶつけられた時に、バックミラー越しに見たからね」
と、助け舟を出してくれた。
「いや、すいません。飲酒運転の取り締まりには特に力を入れているものでして」
男と渚沙の方を交互に見て、警察官は謝った。
「ありがとうございます」
渚沙は男に向かってお辞儀をした。
男は無言で小さくうなずいた。
「では、何かあれば警察の方に来てください。ただ、事故の程度も大きくないですし、お互い怪我はしていないようですね。なんで、示談にするとかどうするかとかは、双方で話し合ってください」
そう言い残して、警察官は去っていった。
残された三人は、これからのことを話し合った。
お互い目立った怪我も無く、車の損傷もバンパーに塗装が付いて親指くらいの凹みがあるくらいだったので、この場では示談と言うことにした。
双方の車の修理代は、幸一郎の自動車保険で払うことに決まった。
今は平気だが後になって体調が悪くなれば、医療費も保険で対応するので何かあれば伝えるようにと男に言っておいた。
という内容の取り決めを、幸一郎は保険会社と電話で連絡を取りつつ、そして渚沙に助言を受けながら、汗もかきながら済ませた。
別れ際、お互いの連絡先を交換と言うことで、名刺に電話番号を書いて交換した。
男の名刺には「鬼瓦商会 取締役 寺島学士」と書かれていた。
「お前、全部この女に任せきりじゃねえか! 彼氏ならもっとしっかりしろ!」
男はそう捨て台詞を吐くと、凹んだ車で帰って行った。
渚沙の彼氏と思われてちょっと嬉しかったが、すぐに振られていることを思い出しその落差に気落ちした。
幸一郎は、ふと時計を見た。
このやり取りで時計の針は、22時を過ぎていた。
(まずい! あと1時間足らずでバッチが動き出す)
つづく