【小説 エンジニアの事故記録】第九話 放浪
「じゃ、私、帰るね」
そう言うと、渚沙は車に乗らず帰ろうとした。
「あ......ありがとうございます」
幸一郎は渚沙に礼を言った。
いつの間にか雨はやんでいた。
今更、「車に乗ってください」とも誘い辛かった。
何たって、その車で事故を起こしているのだから。
「大丈夫だよ。私も初めて事故に遭ったときは、おろおろして何もできなかったけど、一緒に乗ってた人が対応してくれたから。何事も経験だよ。まあ、それでも事故は経験したくないけどね」
「はい」
幸一郎は、彼女が誰とその車に乗っていたのかが気になった。
「仕事と同じ。混乱したらまずは深呼吸でもして気持ちを落ち着けて。ね」
「うん」
事故のショックもあるのに、明るく言ってくれる渚沙に感謝した。
彼女がくれた缶コーヒーに口を付ける。
「じゃ、また明日ね!」
そう言うと、彼女は帰って行った。
時計を見ると、22時を過ぎていた。
(まずい、バッチが動き出す)
幸一郎は重大なことを思いだした。
彼には、事故処理を終えた安堵感に浸る余裕は無い。
急いで事故車両に飛び乗った。
再び事故を起こしてはシャレにならないので、逸る気持ちを抑えつつ運転は慎重に行った。
10分後、職場の近くのコインパーキングに停車し、急いで職場のビルの階段を駆け上がった。
サーバ室に入ろうと、カバンの中からパスカードを取り出そうとする。
「ない......」
幸一郎は背筋に寒いものを感じた。
心臓がバクつき、カバンの中を探る指先が震えた。
手のひらにじっとりと汗が湧いてくる。
パスカードはお客のサーバ室に入るためのものだが、それはお客が管理している物である。
それを無くすということは、お客の資産を無くしたという事であり、紛失事故ということになる。
サーバ室には個人情報も幾らか貯蔵されているし、そのカードが不埒なものの手に渡ればそういった情報が盗まれ漏えいする可能性だってある。
そういう事情から、プロジェクトに入った時から定期的にセキュリティ教育と称して、パスカードの扱いについては気を引き締めるようにと吉田課長からも言われていたのだ。
そのパスカードを無くしてしまったのである。
「まずい......」
今日の定時あたりまで、幸せいっぱいだった自分がこんなことになるなんて想像もしていなかった。
心底浮かれていた自分がバカのように思えた。
メンバー内で事故が続く中、更にバッチがコケるという「やらかし」を犯せば、どれだけ叱られるか分からない。
そこに加えて、パスカードも無くしたとあっては、プロジェクトを首になってしまう可能性大だ。
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「ところで、次は誰がヒットを打つかな」
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今日の昼間、小山がそう言っていたのを思い出す。
ヒットどころじゃない、これはホームランだ。
もう一度カバンの中を隅から隅まであさってみるが、どこにもない。
全身を掻きむしる様に、スラックスのポケットやYシャツの胸ポケと思い付く限りの収納をあさくるがパスカードはどこにも無かった。
遂には、カバンをひっくり返し中のものを全部床にぶちまけて、出てきた物を一個一個精査して行ったが、それでもパスカードらしき物は見当たらなかった。
カード形の物を見つけては飛びつくように手に取り確認したが、どこかの店のポイントカードとかそういう類のものばかりで、
「どこで落としたんだ......」
と、焦りと落胆は募るばかりだった。
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「仕事と同じ。混乱したらまずは深呼吸でもして気持ちを落ち着けて。ね」
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不意に先程の渚沙の言葉を思い出した。
幸一郎は「フー」と深く深呼吸すると、「ハー」と息を吐き出した。
少し心が落ち着いた気がした。
そうすると、これからどうするかを冷静に、そして前向きに考える余裕が少し出て来た。
幸一郎はカバンにパスカードは無いと結論付けると、次はどこに落としたのだろうかと考察した。
今日の17時に会社を出てから、今ここに至るまでにどんなルートを辿ったかを思い起こしていた。
職場の入ったビル
↓
フローリスト野々花
↓
マイフレンチ
↓
マイフレンチ近くの駐車場
↓
ベンツとぶつかったところ、事故処理現場
↓
職場近くの駐車場
腕時計の時間を見た。
22時30分。
バッチ実行まで30分しかない。
だけど、戻ってカードを探さなければサーバ室に入室することだって叶わない。
今まで来たルートを逆に行って探して来るしかない。
(バカ! 馬鹿! ばか! 俺の馬鹿!)
幸一郎は自分で自分を心の中で罵った。
パスカードを無くせば首どころか、自分の会社にだって迷惑が掛かる。
最悪、自社がブロンズ情報システムと営業停止になり、うちの社員を派遣出来なくなる可能性だってある。
そうなれば、社長にも迷惑が掛かるし自分だってこの先どうなるか分からない。
幸一郎はその場から走り出した。
まずは職場近くの駐車場に戻り、車の周りにパスカードが落ちていないかを探す。
暗くてよく分からないので、スマホの灯りを頼りに目を皿のようにして探す。
その様が、余程怪しかったのだろう。
周りの人が幸一郎を指さしながら歩いて行く。
ここには無いと結論付けた幸一郎は、事故車両に乗り込むと先ほどの事故処理現場に向かった。
だが、そこにも落ちていなかった。
次に、渚沙を車に乗せた駐車場にも戻ってみたが、そこにもそれらしきものは落ちていない。
マイフレンチに向かう。
数時間前はここで楽しく飲み食いしていたのにと、何だか今と昔の落差に情けない気持ちになる。
コインパーキングに車を停めて、ドアを開け飛び出すように店に向かった。
店の明かりは消されていた。
外で店員が店仕舞いをしようとしていた。
電飾スタンド看板を店内に運び入れようとしている店員に問い掛ける。
「あの、すいません。今日ここで19時くらいに食事をしたんですが、あの......忘れ物をしてて。確認してくれませんか」
「は、はい」
幸一郎はパスカードの特徴を店員に、身振り手振りをしながら伝えた。
口の中は緊張と興奮でカラカラだった。
店員は怪訝な顔をしつつも、一旦店の中に入って行った。
幸一郎は店員がパスカードを片手に戻って来るのを期待した。
だが、それはすぐに落胆へと変わった。
「すいませんね。そういったものは届いて無いです」
店員はそう告げると、無情にも店内に戻ろうとした。
「そうですか......」
だがどうしても諦めきれない幸一郎は、店員の後ろに付いて行って店に入ろうとした。
「ちょ......お客さん、困りますよ。店終わってるんだから!」
「どうしても無いと困るんです!」
半泣き状態の幸一郎は、店員を押しのけ店になだれ込むと、一心不乱に床の上を這いずりまわるかのように、パスカードが落ちていないかを探し始めた。
さながら、独楽鼠のような動きだった。
腰をかがめ、額に汗を浮かべ、ぐるぐる探し回る。
ここにパスカードが落ちているなんて確信は無いのだが、一緒に探す人がいる安心感と、店の中が多少明るいという僅かな安堵感で、ここに留まって探し続けたいという現実逃避の思いがあった。
次に訪れるであろう花屋はもう店仕舞いしているだろうし、もうそこには無いだろうという諦めもあった。
「お客さん、こっちでも探しておくので、今日は......」
「はい......」
夏の暑さのせいもあるが、それ以上に焦りと不安で、相当な汗をかいた。
湧き出た汗でシャツが背中にピッタリと張り付いている。
(ここには無い)
幸一郎はそう思った。
今まで辿ったルートに落ちていたかもしれない。
だけど、時間が経過したことで誰かが拾って持って行ったかもしれないし、野良猫がくわえて行ったかもしれない。
第一、パスカードにはブロンズ情報システムの電話番号と、幸一郎の顔写真と電話番号が書いてあるわけで警察か何かに届けられていれば今頃、会社か自分に電話が来ているはずなのだ。
それすら未だに無いのであれば、見つけた者がゴミとして捨てたか、本当に野良動物が自分の寝床に持って行ったのかもしれない。
あるいは悪意のある者が手に入れて、今まさに悪知恵を働かせつつ、このカードをどう使うかを考えているのかもしれない。
「おおお......」
絶望的な呻き声を上げ、幸一郎はフラフラと店の外に出た。
その足で、花屋に向かう。
案の定、花屋は閉店していた。
閉められたシャッターのその下に、四角い何かが落ちている。
暗がりでよく色が分からないが、それはパスカードの形を思わせた。
「やった!」
口の中で小さく快哉を上げた幸一郎は、その物体に駆け寄った。
だが、それは大きめの蘭の花びらだった。
幸一郎は疲労と不安でふらついた。
すると、急に怒りの感情が沸き上がって来た。
(小山のやろお......)
幸一郎は拳を握りしめた。
(元はと言えば、お前がこんな罠を仕掛けなければ......!)
シンと静まり返った夜の街に、ガシャっという金属音が響いた。
それは、花屋のシャッターを怒りに任せて幸一郎が正拳突きしたからだった。
幸いシャッターが破損することは無かったが、事を済ませて頭の熱が冷めた幸一郎はすぐさま後悔した。
(大山先生、すいません......)
幸一郎は高校の頃の、空手道の恩師の言葉を思い出していた。
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「血気の勇を戒めること」
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理由はどうあれ、腹を立て物に当たった自分を恥じた。
「ブルルルル」
不意にスマホが鳴りだし、ビクッとなった幸一郎は、ディスプレイを見た。
そこには小山と表示されていた。
「何だよ!」
幸一郎は電話に出るなり怒鳴りつけた。
元はと言えば、お前がこんな飲み会を提案しなければ--
車も事故を起こさなかったし、
パスカードも紛失しなかったし、
渚沙にも振られなかったんだ。
という思いを込めて怒鳴りつけたのだった。
先程、物に当たった自分を恥じていた気持ちはどこかに吹き飛んでいた。
<おい、何怒ってんだよ。お楽しみ中、失礼したかな?>
小山はおどけてそう言ったが、幸一郎の怒りは収まらなかった。
「からかうんじゃねえ! 僕が今どんな思いをしてるのか分かってんのか!」
<は?>
幸一郎にしてみれば、今すぐにでも小山を問い詰めたい。問い詰めたいことが山ほどある。
「俺は親切で電話してんだけどな」
「え?」
「お前、職場にパスカード忘れたまんまだぞ」
「ほんとか?」
一瞬、それまで恨んでいた小山が天使のように思えた。
「今頃、慌てて探してるのかなあと思って、心配して教えてやったのになあ」
「す......すまん。ところで、お前、職場にいるのか?」
「ああ、今仕事」
「今から行く」
こいつには、訊き出さなければならないことが沢山ある。
だが、幸一郎は、そんなことよりも先にやらなければならないことを思い出し、ハッとした。
(バッチを確認しなければ!)
幸一郎は時計を見た。
22時50分。
バッチが動き出すまであと、10分だ。
つづく