【小説 エンジニアの事故記録】第三話 cron念のため
幸一郎は今日の午後6時、職場の近くのフランス料理店「マイフレンチ」で渚沙と会うことになっている。
店には渚沙の返事が出席OKだろうがNGだろうが構わずに、数日前から予約を入れて置いた。
人気店なので当日予約は取れないのが、そうした理由だ。
もしも渚沙からのOKが無かった場合、小山とフレンチをするということになっていた。
それだけは御免こうむりたかった幸一郎は、安堵の溜息を深くついた。
だが、その安定した気持ちもすぐ不安な気持ちに塗り替えられていった。
何と言っても、仕事以外でまともに話したことが無い一目惚れの相手と、今日初めて食事をするのである。
仕事をしながらも、その時のことで頭がいっぱいだった。
どんな話をしようか、いつ自分の気持ちを切り出そうかと考えてばかりで、仕事が手に付かなかった。
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「わっ!」
気が付くと、パソコンの画面が「j」で埋め尽くされていた。
いつの間にか上の空になり、キーボードのホームポジションに手を置いたままだったのだ。
そのせいで「j」キーが押され続け、このような有様。
JAVAについて調査したことをエディタに書き留めていたのだが、調べたことは挿入モードですでに「j」に上書きされていた。
それだけ、舞い上がっていたとも言えるし、不安と緊張を抱えていたのだった。
「大竹さん、今、大丈夫ですか?」
「はっ......はい!」
幸一郎は突然の渚沙の来訪に、椅子から転げ落ちそうなくらい驚いた。
先程まで、妄想の中で彼女と親しく話していただけに何だか余計に恥ずかしい。
「ここJAVAでどうやって組んだらいいか分からないので教えてください」
彼女はプリントアウトした設計書を手に、分からない箇所を指し示しながら質問して来た。
しなやかな細い指の、先端にある透き通って綺麗な爪に、釘付けになった。
「......って感じかな」
「あ、はい! やっと分かりました。ありがとうございます」
幸一郎の熱のこもった丁寧な説明に、渚沙はにっこりと笑顔で応えた。
お辞儀をしたときに長い黒髪が、幸一郎の肩に触れた。
シャンプーのいい香りがして、惚れ直すとともに胸がどきどきした。
渚沙がこのプロジェクトに配属されたのは、この春、四月のことである。
在籍期間が二年以上の古参メンバーが多い、この高年齢化したプロジェクトに、華のような彼女がやって来た時、幸一郎は胸が躍った。
「今日から、よろしくお願いします」
と、朝会で彼女がはにかみながら挨拶した時のことを、昨日のことのように思い出しては、嬉しいような切ないような思いを繰り返していた。
顔が小さく目が大きい彼女は、小猫のような印象を受けた。
しなやかな背に垂れ下がる長い黒髪も、幸一郎好みであった。
よく言う、「一目惚れってこれかあ」と、合点がいった。
高校の頃、付き合った彼女は好きではあったが、渚沙と比較すると「一目惚れってこれかあ」では無かった。
「あ、今日6時だったよね?」
彼女は思い出したかのように、今日の食事会について確認して来た。
「あ、はい!」
「よろしくお願いします」
「小山君も来るんだよね?」
「は......はい」
(ごめん......小山は来ないんだよ)
渚沙の顔が、小山の話題になった時に少し、いや、結構、自然な感じでほころんだような気がした。
幸一郎は何故だが複雑な気持ちになった。
そして、小山が来ない件は、彼女を騙しているようで心苦しかった。
だが、その小山が応援してくれているし、何より二人きりでないと言えないことだってあるんだ、と幸一郎は自己弁護した。
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「大竹君、今日の夜に君の作ったバッチが初めて動くんだよね?」
午後4時ごろ、幸一郎の改修した店舗情報入力画面のレビューがひと段落着いた頃、レビューを受けた吉田課長がそう問い掛けた。
「はい」
「何時に起動するんだっけ?」
「えっと......23時に動きます。データベースサーバへのcron登録とスクリプトの配置は済ませています」
「そうかい。まあ、君は慎重だからミスはしていないと思うけど......」
ちょっと褒められて嬉しくなる幸一郎であったが、そのレビューに同席していた小山が横から会話に割り込んできた。
「大竹、念のためもう一度、cronがちゃんと時間通りにバッチを起動するように設定するかどうかだけは確認しておいてくれないかな」
小山はそのバッチの設計者だった。
その小山が幸一郎に問い掛けた。
その問い掛けを聴いた吉田課長は、幸一郎にこう尋ねた。
「大竹君、cron登録とスクリプトの配置を済ませた後、ちゃんと登録されているか確認したんだろ?」
「はい」
そのやり取りを聴いていた小山が、またも横から割り込んできた。
「だけど、大竹。その時はお前一人で登録と確認作業を行ったんだろ?」
「ああ」
確か登録作業を行ったのは三週間前のことだ。
その頃はまだ、ダブルチェック制度が施工されていなかった。
「もう一回、確認しようぜ」
小山がそう言ったのを聴いた吉田課長はこう言った。
「さっき確認したって言ったんだから、もうその必要はないよ」
だが、若者は反論した。
「いや、課長。ただの確認じゃなくて、大竹ともう一人付けて二人で確認させるんですよ」
「そこまでやる? みんな忙しいのに?」
「もちろん。まあ、大竹がミスってるとは思ってません。ですが、彼の思い込みもあるかもしれない。だから、二人でチェックして本当に漏れが無いか確認したいんですよ。今の状況を考えると、もうこれ以上事故は起こせませんのでね。念には念をということで」
このところの事故続きで、小山は本番環境に関わることについてピリピリしている。
こうして、念のためと言っては時間を掛けて確認することをメンバーにも吉田課長にも推奨している。
吉田課長は事故の再発防止に頭を悩ませながらも、予算を管理する立場上、余りそのことに工数を掛けたがらないところがあるため、小山の意見に反対することが多かった。
幸一郎も小山のこの念の入れようには
(何もそこまで)
と辟易するところがあった。
そう思っているメンバーも何人かいるようだった。
幸一郎が一階のドリンクコーナーで休憩している時に、そう思っているメンバーと出くわすと、小山に関するそういった話題になることが多い。
小山が来る前のぬるま湯生活の方が良かったと思う者は、彼を煙たいと感じながらも、声の大きさと説得力に反論出来ず指示に従う者も多いようだ。
小山は二年以上のメンバーが多いこのプロジェクトにおいて、配属からまだ一年しか経っていない割と若い方だった。
前のプロジェクトでサブリーダーとして大成功をおさめた後、ここに配属されたそうである。
それまで別のプロジェクトでバリバリやっていたというのもあるし、自分の実力に自信もあるのか、どこかノンビリとした(小山から見て)吉田課長のやり方が鼻につくようだ。
今回は幸一郎もちゃんとcron登録したことは確認しているので、これ以上の確認は必要あるのかと思っているが、今日がバッチ初回実行と言うこともあるし、何より渚沙との食事会は彼の世話になっているので、言うことを聴くようにした。
「じゃ、大竹、確認しに行こうぜ」
そう幸一郎を促すと、吉田課長を置いてさっさと行ってしまった。
幸一郎は席を立つとき、置き去りにされたままの吉田課長が小山の背中を睨みつけているのを見てしまい、ゾッとした。
つづく