【小説 愛しのマリナ】第十二話 五月雨の変更依頼
「何? この長い髪の毛?」
響子は真里菜のものと思われる長い一本の黒髪を、右手の人差し指と親指でつまみ、慶太の顔の前に持っていった。
「誰の?」
押し殺したような声で問い詰める響子に、慶太は自分でも驚くほど落ち着いた感じで
「同僚の」
と答えた。
「女?」
スパッと強い口調で、短く問い詰めてくる妻に
「そう」
とあえて合わせるように短く答え、心の波たちを悟られないようにした。
「同僚の人と何してたの?」
「仕事帰りにたまたま会ったから、ちょっとお酒飲んだ」
こちらから変に取り繕った話をしてボロを出し、挙句、突っ込まれるのはごめんだ。
慶太としてはやましいことはしていないが、あれこれこちらから細かく言えば返って怪しまれると思った。
響子の方から問い掛けさせて、それに答える形にした方が安全だし自然だと思った。
黙って相手の質問に端的に答えていれば、一緒に飲んだことが問題になることはないだろうと、流れに任せた。
だがそれは、飲んだことが問題ではなく「自分の気持ちがどうなのか」ということが問題だと言うことを、慶太は後日知ることになる。
「一緒に飲んでるだけなのに、何で髪の毛があなたの肩に付くの?」
「帰るときに倒れそうになったから、支えてあげた時に付いたんだよ」
ちょっとわざとらしい作り話のような言い訳になったな、と思ったが、言ってしまったものは仕方ないのでこのまま行くことにした。
大丈夫、やましいことは何もしていない。
「ふーん」
響子は釈然としない顔をしたが、夜も遅いし希優羅も寝ているのでこの辺りで尋問は打ち切りとなった。
朝起きると、響子の書置きがあった。
「今週土日は希優羅をお願いします。友達と旅行に行くので 響子」
響子を起こそうと寝室に行ったが鍵がかかっている。
ふて寝を決め込んでいるようだ。
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翌朝、職場に着くと、LINEの着信が来ていることに気付いた。
森本からだった。
「今日は体調不良のため病院によってから来ます。午後辺りに来まする」
「あいつ......」
慶太の胸の奥に、怒りとも呆れともつかない何とも説明しがたい感情が差し込んで来た。
荒川に森本が午前中休むことを伝えると、嫌味にもこう言われた。
「何ですって? 困るなあ。ちゃんと先輩として監督してくださいよ。森本君は有能な人なんだから」
なんだか慶太への当てつけのように森本を可愛がっている様がイラついた。
この苛立ちを忘れたい慶太は、早速開発に没頭しようと、席に着きeclipseを起動した。
今日は何としても進捗率を70%までは上げたいと思っている。
ただ、それを許さない事態が発生した。
次々設計書類の改修が入り、それに伴ったプログラムの改修が次々発生するのである。
慶太の担当している機能の設計を担当しているのは、グローバルソフト興業の社員である。
この設計書の変更が少ないときでも、日に五回は入るのである。
特に困ったのがデータベースのテーブル変更を伴う改修で、その度にインフラチームが作成するDDLとデータベースアクセス部品(DAO)の完成を待つことになる。
そのDDLを自分のマシンにあるORACLEで実行し、単体テスト用データベースを作り直す。
そしてDAOを取り込み直す。
これで、ひとまず単体テスト環境が整う。
しかし、DDLとDAOが作成ミスで、データベースとDAOが不整合だった場合、プログラムが動かない。
単体テストが出来ないので、インフラチームに再度、DDLとDAOの作り直しをお願いすることになる。
プログラムの方は、それに合わせて画面の項目の長さやプログラムを作り直すことになる。
三歩進んだと思ったら、二歩戻るといったことが発生し、一向に進捗率は上がらなかった。
慶太はそれが自分だけだとは思っていない。
他の機能を担当している者も同じような目に合っているようで、とくに会員同士のスケジュール管理機能を担当している田中は日に五回は設計書の変更が入り、その度に改修と単体テストを繰り返している。
データベース設計書のファイル名に付与されているバージョンが、ver50にもなっている。
慶太はこの状態のせいで、デスマーチのような状態になっているのだろうと思った。
これは荒川に対しても何か一言いうべきではないか、と考えていた。
まさか、この状態を知らないわけでは無いだろうし、何か考えてはいると思うのだが。
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気晴らしにトイレに行くと、田中が洗面台で顔を洗っていた。
「田中さん」
「あ、大沢さん。ここには慣れましたか?」
「いやあ、まだまだです」
「荒川さんがリーダーだと、やりにくいでしょ?」
「そうですね。なんか癖があるというか」
「大沢さんの会社の人も、色々荒川さんと揉めて辞めて行ったもんなあ」
逃亡した土田のことを言っているのだ。
(あの人、荒川と揉めたんだ......それで俺のように嫌われて居辛くなって逃げたってことなのか)
と慶太は思った。
「それにしても、設計書の改修が毎日のように入って大変じゃないですか?」
「そうなんだよ。これじゃ終わる物も終わらないよ。設計書が確定してから実装に入るもんだろ普通。だけど、ここだと毎日のように変更が入る。DDLやDAOが出来るまで待つのだって辛いよ」
「僕も思ってました」
荒川が次々変更が入る設計書に歯止めを掛けずに、開発メンバーに垂れ流していることが問題だと思っていた。
事実、久米のバッチ系チームは同じように設計に変更が入っているようだが、久米が中身を吟味して再設計がありそうなものは、設計チームに付き返しているようなのだ。
つまり久米の承認が無いと、修正した設計書は開発メンバーに届かないようになっている。
「今日の会議で、バッチチームのように管理してほしいって、提案しようと思ってます」
「私も言いたかったんだ。でも荒川さんが聞いてくれるかな」
田中が心配そうに答えた。
「なにも言わないよりはマシだと思って言ってみます」
「言うにしても、気を付けてくださいね。あの人に嫌われるとやりにくくなるから」
(もう嫌われてるよ)
と、慶太は思った。
だが、こうやって気遣ってくれる田中の存在を、ありがたいと思った。
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「リアル系開発チームの会議をします」
荒川の一声で、週一回の開発会議が開かれた。
この打ち合わせはチーム内進捗という形を取った問題の出し合いの場で、週一回木曜日に行われるのが原則だった。
各担当者ごとに機能が異なるため、それぞれで問題となった部分を共有する。
そして、自分のところで同じ問題が起こることを未然に防ぎ、スケジュール遅延防止を図ることが目的である。
参加メンバーは荒川、慶太、田中、堀井の四人だった。
慶太はこの会議で、先ほど田中とも話したことについて、改善するよう荒川に提案するつもりだった。
「今のやり方だと、設計書の変更が日々数回発生し、その度に改修が入るんですよ。これじゃ何時まで経っても開発が終わりません」
「で?」
そう訴える慶太を、荒川は冷ややかな目で見た。
「荒川さんの方で、一旦、変更された設計書を引き取って精査してほしいんですよ。また変更が入りそうな設計書は、設計チームに突き返して下さい。そして、ちゃんと設計してからまた出すようにお願いしてください。こう五月雨式にだらだらと設計書変更が来られちゃ、開発が終わらないです」
田中は慶太の方を見て小さく頷いている。
だが、荒川はきっぱりとこう答えた。
「だめです」
「お客からの要望が毎日のように来るから、設計書も日々変わって行ってるんだよ。そりゃ日々良いものにしようと思うから色々変更も出るさ」
「だとしても、久米さんのとこみたいに、水際で食い止めてもらうと助かるんですが」
慶太は言った瞬間、しまったと思った。
荒川は久米を蛇蝎のように嫌っているのだ。
その久米を引き合いに出して、同じやり方で改善してくれと言われては火に油を注ぐ様なものだ。
「久米さんとことうちは、リアルとバッチで物が違うし、だからこっちはこっちのやり方でやりますから!」
自分の名前が聞えてきて、久米がこちらを「しょうがねえなあ」と言うような顔で見た。
「残業してもいいんで、設計書の変更に合わせて作ってください。その分の残業代は払いますので」
二言目には残業代とかお金の話を出して話を終わらせようとする。
慶太は憤った。
目の前にニンジンをぶら下げられた馬じゃあるまいし、金さえちらつかせれば働くと思っているのだろうか。
「それじゃ、全体のスケジュールについて話します」
つづく