匿名の開発者 7
「それで、凪さんのところではどんなエラーが起きるんだっけ?」
健吾は知原凪の席がある後ろからやや距離を取った状態で立つ。
距離は四五センチ以上になるように心がけている。その理由は、ちょっと前にあったパワハラ防止研修で、仲がよくない人に四五センチより近い距離――いわゆるパーソナルスペース――に接近するとハラスメントになると教わったからだ。
研修は正社員だけではなく、客先に常駐するBPも対象ということで受講した。受講は任意ではなく必須である。『受講しないと退場になる可能性があります』と元請けから脅し文句という名の脅迫をいただいたので、渋々受けた。換言すると、それだけハラスメントに敏感になっているということだろう。
知原凪は弊社の新人であるし、仲はいいほうだと思っているが、内心がどうかはわからない。自分はエスパーじゃないから。どちらかというとハラスメントがどうこうよりも、『なんか加齢臭がする』と言われるほうが、ショックなのである。凪さんにそう言われたから、かなりへこむと思う。余っている有給をすべて使い切って、自宅に引きこもってしまう自信がある。そんなに年寄りという認識はないが、自分が若者という認識もない。微妙な年齢層にポジショニングしている。
「すぐ再現できるんで、ちょっとやってみますね......」
しゃべりながら、手元ではユーチューブの倍速再生で操作をしている。
さすが、若い。あんなふうにキビキビと手が動かせなくなったのは、いつからだっただろうと記憶をたどる。思い出せない。
「専用アプリからテストデータが格納されたファイルを指定して、転送と押すと......」
ふたりとも固唾を呑んでプログラムの動作を見守る。
三〇秒ほど待った。
アプリが「転送エラーです」という非情なポップアップを出した。ポップアップがでてくるまで、実に長い時間待ったように感じた。
「あ、健吾センパイ、これです。こんな感じで転送に失敗しちゃうんです~」
首を左方向に回転させて、健吾のほうに顔を見せて報告する。
瞬間、脳内にいくつかの原因が浮ぶ。ネットワーク通信障害はこれまでに何度も経験してきたから、自分の中にパターンができる。失敗を積み重ねることで、自分の中にトラブルシュート力が身につく。逆に、こうしたトラブルを避けていると、いつまでもスキルは上がらない。
エンジニアたるもの、失敗を恐れてはならない。
人間は失敗からしか学べないのだから。
「じゃあ、ひとつずつ切り分けをしていこうか」
健吾は襟を正して言った。
「切り分けってなんですか? ケーキを切り分けるならわかりますけど、いまここにケーキないですもんね。あ、そういえば、先日作ったケーキの残りを冷蔵庫に入れたままでした。早く食べなきゃ。教えてくれて、ありがとうございます!」
「いや、私は何も教えていないけど」
健吾は思わず吹き出してしまった。なかなか面白いことを言う子だ。自分もこれぐらいのトークスキルがほしい。
「話題が逸れたけど、ついでだから話に乗るけど、冷蔵庫に入れたままでもケーキは傷むから食中毒に気をつけないと」
「この時期でもまずいですかね。真夏の時期だと冷蔵庫に入れた食材がすぐにダメになっちゃいますけど」
「リステリア菌だと四度以下の低温でも増殖する。生クリームそのものは問題ないけど、非加熱のナチュラルチーズを使っているレアチーズケーキやティラミスはやばい」
「え!? そうなんですか? 作ったのチーズケーキなんです」
「リステリア菌を画像検索するとグロいのがでてくる。カプセル型の薬みたいな形したボディに、ムカデみたいに足がたくさんついていて......」
知原凪は何かを言おうとして開きかけた口を閉じて、顔を顰めた。
「話を戻そうか。切り分けというのは問題の原因を絞り込んで特定していく手法のことを言うんだ」
ずっと立っているから足が痺れてきたため、健吾は誰もいない机の椅子を勝手に借りて座った。誰もいないはずだが、人が来るまで勝手に使わせてもらおう。
「日本語だとケーキの切り分けと言葉は同じだけど、英語だと別表現になる。ケーキを切り分けるは"cut the cake"。問題を切り分けるは"isolate the issue"。それぞれで使う単語が違うでしょ」
「あ、なるほど~。カットとアイソレートですね」
「アイソレートは普段の生活で使わない言葉だし、あんま馴染みないよね」
「いえ、そんなことないですよ~。アイソレートよりもアイソレーションをよく使いますね」
健吾はちょっと驚いた。アイソレーションは様々な分野で登場する用語ではあるが、いったいどれのことを指しているのか興味がでてきた。配管工事でバルブを閉めて、他に影響を与えないようにすることをアイソレーション、略してアイソレと呼ぶが、もしかしてそれのことだったら、なかなか渋い。
「参考にまでだけど、どういうときに使うの?」
「ダンスのときですよ」
さすがに配管工事ではなかったか。少し安心した。いや、エンジニアなのだから配管工事でも問題なかったのだが。
「ダンスのことは詳しくないのでご教授ください、先生」
「はっ? えっ? わたしはダンスを人に教えられるほどうまくはないですよ。学生時代にちょっとやってただけなんで。ときどき、学生時代の友達とダンスすることありますよ。首とか肩とか特定の箇所だけを動かすことをダンスの世界ではアイソレーションと呼ぶんです。踊っているところを動画で撮って、あとでチェックするんです。振り返りって大切じゃないですか」
健吾はハッとさせられた。知原凪はまだ新人だが伸び代があるし、将来化けるかもしれないな。頼もしい。
「ダンスのことは門外漢だけど、自分たちのような仕事でも振り返りは重要なんだ。心理学用語ではメタ認知能力というそうだけど、なぜ仕事がうまくいかなかったのかを深掘りして、原因を探る。その結果をフィードバックして、次からは仕事が成功するようにしていくんだよ」
「なるほど~。丁寧に教えてくださり、どうもありがとうございます!」
「ダンスのアイソレってどんなのか興味でてきたんで、今度、ユーチューブで動画を探してみるよ」
知原凪は「ところで」と話題を切り替えた。
「転送エラーについては、具体的にはどうやって切り分けしていくんですか」と訊いた。
健吾は「話が脱線しまくりだったね」と小さく謝罪した上で、答える。
「抽象的な表現になるかもだけど、範囲が広すぎて真因がどこにあるかわからない状態に対して、小さな範囲に分割する。問題の原因がありそうな範囲が見つかったら、今度はその範囲の中をさらに分割する。こうした分割を繰り返していくことで、いずれは答えにたどり着くという解法である」
「んん~、ちょっと難しくてよくわからないです......」
知原凪は首を右三〇度に捻る。
「私の説明が下手くそだったね。別の表現をしよう」
健吾はそう言って頭を下げると、知原凪は即座に「いえ、健吾センパイの説明が悪いんじゃなくて、わたしの読解力が足りてないからですよ」と答えた。
満員電車で二人のおばちゃんがひとつしか空いていない席を、永遠にお互いに譲り合っているという場面と似ていて、健吾は思わず吹き出した。
「え? 何が面白いんですか......?」
知原凪が怪訝な瞳で健吾の瞳を覗き込んだ。
「いや、なんでもない。ただの思い出し笑い」
知原凪は納得していない表情をしたが、すぐに普通の表情に戻した。
「今回の事象はネットワークの通信エラーなので、疑わしい箇所をひとつだけ決めて、その箇所が原因ではないか、という仮説を立てる。その仮説が正しいかを証明する。低レイヤから攻めていくのが定石かな」
「低レイヤというのがピンとこないです」
「ハードウェアに近いほうという意味だよ」
「うーん、わかったような、わからなかったような」
知原凪は首を捻っている。
「じゃあ、具体的にチェックしていこうか。まず、LANケーブルが抜けているってことない?」
健吾が真顔で質問する。
「ええっ!? いや、さすがにそれはないと思いますけど」
「まあ、そう思うよね。でも、慌てて作業しているときほどケアレスミスって多いんだよ」
「そうなんですか」
知原凪はそう言いながら、机の上に置いてある機器につながっているLANケーブルの押し込み具合を確認する。
「LANケーブルはしっかり挿さっています......あっ、コネクタ部分の爪がない」
「ああ、爪折れなんだね。本当はよくないけど、いまはケーブルがきちんと差してあるなら問題はないよ」
今度、LANケーブルを発注するとき、某社が販売している『絶対にツメが折れないLANケーブル』を注文しておこう。
健吾は別の質問を投げる。
「機器側ではLANがリンクアップしている?」
「確認してみます......」
スマホのフリック入力を高速に行うがごとく、機器を操作しているのが見えた。若者は脳みそも若いからか、手の動きが素早い。若さがうらやましい。
機器を覗きながら「リンクアップしていないですね......」と答えた。
健吾も覗き込んでみたが、リンクアップを示すアイコンが点灯していなかった。「なるほど、こう来たか」と心の中で思う。
「LANケーブルが本当に抜けている可能性がまだ残っているので、もう少し調べてみようか。このケーブルって、どこにつながっていたっけ」
健吾はLANケーブルを強く引っ張らないようにして、辿り寄せる。机の前方にある隙間から生えている。景観をよくするために、という理由で元請けの美化委員から「ケーブル類は見た目に隠すように」と指導を受けている。
来客があったときに机の上が汚いと心象がよくないらしい。実際に、他社から来客があることはない。あったとしても、専用の来賓室にお客様を招くだけであり、自分たちがいる現場にはセキュリティ上の理由から入ることすらできない。
元請けの本社から役員が来たときに現場を視察したときに、「机の上がごちゃごちゃして汚らしい」と鶴の一声があったというのが本音らしいが、実話なのか作り話なのかもよく知らない。元請けは親会社からすると子会社なので、本体の人間には逆らえないという暗黙のルールがあるのかもしれない。
機器類は一見してごちゃごちゃみえるほうが、取り扱いがしやすい。無理にキレイにしようとすると、ケーブルを狭いところに押し込むことになり、ケーブルにテンションがかかる。それによりケーブルが断線する場合がある。
「このLANケーブルはどこにつながっているのだろう」
健吾は疑問を声に出して、机の下に潜り込んだ。
「あッ! いってェェェー!」
突如、頭の天辺に激しい痛みが襲った。一瞬、何が起きたのかわからず、気が動転する。
「け、健吾センパイ? どうしました!?」
頭上から声が聴こえたが、あまりの痛みで声が出ない。
「センパイ、大丈夫ですかー?」
今度は、真後ろから声がした。
「......つー、大丈夫じゃないけど、大丈夫」
なんとか声が絞り出せた。
四つん這いの状態でLANケーブルの先をたどる。
「ゴホ、ゴホッ! あー、埃がひどいな。マスク着けてくればよかった。次のカーペット清掃はいつだったっけ。ダニも湧いてそうだが」
机の下では数多のケーブルがとぐろを巻いていた。これのいったいどこが美化なのだろうか。汚いものを視界の外に追いやっただけで、見たくないものを見ないようにしているだけだ。
ケーブルと格闘した結果、床に置いてあった一つのスイッチングハブに、机の上からのケーブルがつながっていた。スイッチングハブと発音するのは面倒なので、略してスイッチとかハブとか人によって呼び方が変わるが、相手に意味が通じればなんでもいい。
スイッチングハブのポート数は二四個あるタイプのようだ。まれに五ポートしかないスイッチングハブを床下に置いてあるところを目撃したときは、正直驚いた。ネットワーク担当に理由を聞いたら、経費をケチったわけではなく、元々机の上で使っていて移動がしやすいように小型の製品を購入していた。
が、例の美化委員が口うるさくて、渋々床下に設置させたという結末だった。おかげでテストの効率が下がったらしいが、そんなことよりも職場をキレイに見せることのほうが大事らしい。いまいち、理屈が理解できない。論理的に飛躍している。
ここの職場ではスーツ着用が義務化されておらず私服でよい。ただし、シャツは襟付きでないとダメという謎のルールがある。理由はよくわからない。正社員の人に聞いても「いやー、わかりませんねえ」という回答だった。ご丁寧にも「そういうことはツッコミをしたらダメですよ。世の中には知らないほうが幸せということもありますから」というありがたいお言葉をいただいた。郷に入っては郷に従え、というやつだろうか。
小汚い床に這いつくばりながら、スイッチングハブのリンク状態をよくみるとLEDが点灯していなかった。
「あれっ、ポートが壊れているのか。いや、それとも......」
LANケーブルを少し強めに引っ張ってみると、抵抗力がまったくない。
ポートに挿さっていたと思ったが抜けていたようだ。
手繰り寄せたケーブルをみると、爪が折れていた。両端が爪折れなんて、すごい確率だ。というより、こんなケーブルを使わないでほしい。
試しに、スイッチングハブのポートにケーブルをぐっと押し込むと、ポートの左上にある小さなLEDが緑色に点灯した。
「おお、リンクアップしたぞ」
無意識に独り言が喉の奥からでてくる。
健吾は頭を机にぶつけないように気をつけながら、机の下の汚部屋から緊急脱出する。
頭を押さえつつ立ち上がると、知原凪が心配そうな顔で見つめていた。
「大丈夫ですか? なんかすごい音がしましたけど......」
「ああ、大丈夫だよ。いや、大丈夫じゃないかもだけど。頭を机にぶつけただけなんで、あとで自分で診てみる」
ぶつけたところから血は出ていないと思うが、軽くコブができている感じもする。
「それよりも原因がわかった。スイッチングハブのポートにケーブルがちゃんと挿さってなかった」
「え? そんなことあるんですか」
「いや、よくある話さ。しかも、もう片方の先端も爪折れだった。両端とも折れているのは珍しい」
健吾は身体についた埃を払いながら、椅子に座って、話を続ける。
「ひとまず物理層のレベルではLANがつながったけれど、このまま放置しておくと、またいつケーブルが抜けるかわからない。テスト効率がぐっと下がる」
「じゃあ、新しいケーブルを探してきましょうか」
「いや、いい。確か爪の補修パーツが余っていたはずだから、それを取ってくるよ。ちょっと待っててもらえるかな」
「承知しました。ここで待ってます。あと、あまりに痛いようでしたら、ちゃんと病院で診てもらったほうがいいと思います」
知原凪が浮かない表情で答えた。健吾は「ああ、そうする」と返して、フロアから出ていった。
健吾はひとつ下の階へ向かうため、階段まで来た。
階段の反対側にトイレがあるため、男子トイレへ入る。
黒とグレーの洗面所の前にいく。建物自体が古いため、洗面所のタイルにはあちこちに黒いカビが付着している。この時期は問題ないが、夏になると雑巾の臭いがする。どこにも雑巾なんてないのに、である。トイレで雑巾の臭いに悶絶して死んだ人の霊魂が、毎年夏になると帰省気分を味わうために、ここにやってくるのだろうか。
鏡を覗き込む。
鏡に向かって、首だけ左方向に九〇度回転させる。さらに、首をやや右下のほうに傾ける。頭をぶつけたところを見ようとするが、鏡のウロコが邪魔で、よく見えない。トイレの清掃は業者が定期的に行っていると聞いたが、本当に掃除されているのか疑いたくなる。洗面所の清掃は契約の対象外なのかもしれないが。
今度、自宅にあるメラミンスポンジを持ってきて、勝手に磨いてみるか。ただ、このスポンジは研磨して汚れを削り取るものなので、安易に鏡に使うのもよくはない。メラミンスポンジはメラミンフォームという素材からできている。スポンジというより研磨剤だ。
鏡のウロコは要するに汚れなのだが、原因が二つある。
一つ目は水道水に含まれるミネラル成分で、鏡についた水が蒸発したあと、ミネラル成分が結晶化して白くなる。アルカリ性の汚れである。
二つ目は石鹸と水のミネラル成分が反応して、白い物体となる。こちらは酸性の汚れである。
それぞれでアルカリ性と酸性と異なるため、汚れの落とし方も違う。
アルカリ性の汚れはクエン酸などの酸性洗剤で落とせる。酸性の汚れは、重曹などのアルカリ性洗剤で落とす。
メラミンスポンジは生活器具の汚れを落とすための掃除グッズとして販売されているが、歯の汚れを落とすための製品もある。医療用として開発されたもので特許もあるぐらいなので、極力歯を傷つけることがない。換言すると、掃除グッズのスポンジで歯をゴシゴシすると、歯や歯茎を傷つける。さすがに、掃除グッズとして売られているものを自分の歯に押し当てる人はいないと思うが。
鏡のウロコとウロコの隙間に目を凝らして、鏡の国にいる自分の頭を注意深くチェックする。やっぱり、血は出ていないようだ。たんこぶも、ない。もし、あとで痛みがでてきたら病院に行こう。
会社員は何かと忙しい。労働基準法で定期的に社員の健康診断を実施する義務があるため、年に一回は嫌でも受けさせられる。会社の健康診断なんて簡易的でザルな感じがするので、大病があっても見つからないような気がする。それでも、定期的に受診しているから、根拠がない安心感がある。そのためか、個人的に病院に行くことがない。
コロナ禍のときは、ただ面倒くさかった。
発熱しただけで病院に行ってコロナかそうでないかを検査しなければならなかった。検査の結果、新型コロナウイルス感染症だったら医療費がタダになったのはありがたかったが、そうではない場合は自腹になる。それなりの金額になるので出費として痛かった。
すぐに収まると行っていたコロナ禍も三年三ヶ月続いたのが、いまだに信じられない。世界中が熱狂していたが、人種という枠を越えて共感のムーブメントが起きた。スマホもSNSも存在しない時代だったら、コロナ禍なんて起こらなかったような気もする。
こういう悪い方向へのバズリ方は、もう体験したくない。バズは野次馬として外堀から眺めることでエンタメとして楽しめるのだ。バズりに自身が巻き込まれると碌なことにならない。
トイレから出て、階段を降りて、下の階にある工具室に向かう。
業務時間中は従業員のほとんどは机に座って、誰ともしゃべることなく作業に集中しているので、建物内はとても静かだ。ルールに厳しい図書館よりも静かな職場である。
工具室は正社員の他にBPも利用することができる。というより、最近になってBPも入室できるようになった。いちいち、工具を借りに行くのに正社員にお願いをしないといけないで、対応が面倒になったかららしい。
工具類は会社で購入したものだから、会社の資産となる。原則、私物の工具は会社に持ち込むのは禁止されている。
工具にはひとつひとつRFIDタグが付いている。盗難防止という目的ではなく、年に一回ある設備の棚卸しでかかる作業負担を軽減するのが目的である。
会社が買ったモノは経費として複式簿記に記載して、会計に計上する必要がある。経費として計上しないと、会計上の利益が増える。利益というのは単純に「売上-経費」だから、経費を減らせば、その分利益は増える。当たり前だ。
こうした見かけ上の利益を高くする手法を粉飾決算と言う。他の手口として架空の売上を作り出して簿記に載せてしまうというのがあって、こちらのほうが定番だ。粉飾決算は罪として重たい上に、全国いや全世界でニュースとなるため、企業としてのダメージが大きい。
だからこそ棚卸しでは厳密に設備の存在有無がチェックされる。ひとつでも紛失があると、組織としておおごとに発展する。
通常、モノの購入金額によって資産の区分をわける。
購入金額が二〇万円以上で耐用年数が一年以上ならば固定資産。一〇万円以上かつ二〇万円未満で耐用年数が一年以上ならば準固定資産。一〇万円未満ならば消耗品費。
分類して会計することで減価償却がどうのこうのとか、節税ができるとかのメリットがあるらしいけど、健吾には詳しく理解できていない。このあたり、社内研修では受講したのが完全に理解できたわけではなかったし、受講後の試験で一〇〇点満点である必要もなかった。本当は理解度が足りていないところは自己学習すべきなのだろうが、そこまでの時間も気力も、ない。
会社員はいつも疲れている。
工具室の入口から覗くと、誰もいない。一歩足を踏み入れると、むっとした空気を吸い込み、思わず咳き込む。窓もないタコ部屋だから空気が悪い。
どことなく鉄とカビのような変な臭いがする。工具は不特定多数の人間が触るから、手垢が多数つく。工具を握るとヌルヌルした感触があり、清潔感はよいとは言えない。ほとんどの男性はこういうことを気にしないのだが。
職場で共有して使う電話もいろんな人が使うので、風邪が伝染りやすい。
マシンルームには一台の電話が置いてある。マシンルームに入り浸って作業をしているとき、職場に電話連絡をしたい場合に、その電話を使う。
実際使ってみたことは何度もあるのだが、常に受話器がヌルヌルしている。なんだろうか、あのヌメヌメ感は。しかも、どことなくイカ臭い。
電話機が物理的に気持ち悪いというだけならよかったのだが、案の定、ひどい風邪を引いた。本当に電話機から感染したかどうかは、医学的に裏を取っていないので推測の域を出ない。エビデンスは、ない。
エビデンスがない主張には説得力がまったくない。
動かぬ証拠を掌握したうえで、相手を追い込む。
議論の基本である。裁判の検察官や弁護士とやっていることと似ている。
「さて、あのパーツはどこに仕舞ってあるかな......」
健吾はぐるぐると三六〇度、身体を回転させてベクトルを変化させる。
「以前、見たときはまだ残っていたんだが、もうなくなったかなぁ。あれ、高級品だからなぁ」
ただいま業務時間中だから、あまりここに長居はできない。
業務時間中に自席に長い時間不在だと、ある正社員に「あの人、仕事をサボっていましたよ」とチクられたことがあった。
実際にサボっていたわけではないのだが、いちいち説明をするのも面倒であるし、反論する時間ももったいない。そんなくだらないところに時間を割く暇があるなら、仕事を進めたい。外注は立場が弱いのだ。
「あっ、あった!」
幅四〇センチ、高さ二〇センチ強の黒い箱。その箱の裏に隠れていた。
箱の奥行きは何センチかよくわからない。部屋が薄暗くて、奥がよく見えない。
工具室の天井にある蛍光灯は、まだLEDではない。
発見した爪折れ補修パーツは残り二つだ。ちょうどこれで使い切る形となる。
「このパーツ、高いんだよね。ただのプラスティックなのに」
LANケーブルの爪だけを模倣したプラスティックで、三つで五〇〇円もする。しかも、サイズが合わないとうまく爪がはまらない。無理矢理はめようとすると、パキッと壊れる。本当、プラスティックは脆い。
人間の爪はプラスティックと同じ硬さと、小学校のときに先生が言っていたと記憶している。実際にはほとんどのプラスティック素材よりも、人間の爪のほうが硬い。
モノの表面硬度の測定方法はJISで規定されていて、鉛筆法を呼ぶ。名前から想像がつくように、鉛筆を使って表面に引っかき傷ができるかどうかを図る。
人間の爪は鉛筆法で2.5Hである。
鉛筆なんて社会人になると一切使わなくなるツールなので、学生時代の記憶も曖昧だが、BかHBの芯をよく使っていたと思う。HはHardの頭文字で硬さを表す。BはBlackで濃さを示すもので、硬さとは無関係のパラメータだ。そういえば、いま思い出したけれど、同級生に4Hのシャープペンシルの芯を使っていた奴がいたなあ。「おれはHBみたいな折れやすい芯は使わないんだ」とかなんとか言っていた。あれこそが斜に構えるというやつだったのだろうな。
車の塗装と人間の爪との硬さ比較もよく話題にのぼる。
国産車は人間の爪より柔らかいので、爪でひっかくと簡単に傷がつく。
外国車は国産車よりも硬い。だから、外国車のほうがキレイに見える、という理屈だ。
ただ、これは一般的な話で、車によって硬度は変わる。テスラは柔らかいので、傷がつきやすい。まあ、たいていのテスラユーザーは納車後にボディコーティングをしていると思うが。
今後、もし誰かに嫌がらせをされて、そいつがテスラ所有者だったら、人間の爪でガリガリしてあげよう。