生涯現役のITエンジニアを目指して、日々成長していくためのコラムを紹介します

匿名の開発者 4

»

 キンコーンカンコーン......キンコーンカンコーン......。
 予鈴が鳴った。昼休みがそろそろ終わる。
「お、もうこんな時間か。そろそろ戻ろうか」
 野場は静かな声を出して、トレイに空になった食器を整理し始める。
 健吾は目をぎゅっと細めて、壁にかかっているアナログ時計をみる。一二時四五分を指しているが、相変わらず時刻が遅れている。いったいいつになったら直すのだろう。
 薄々、誰もが気づいていても、いちいち然るべきところに連絡するような暇人はいない。これだけ図体のでかい会社にいると、そもそもどこに連絡すればいいかも知らない。自分のような外注にはなおさら関係のないことではあるし、正社員に対して進言しようものなら、逆に目をつけられる。
 触らぬ神に祟りなしとはよく言ったものだが、こういうことが加速するから組織としての風通しが悪くなる。厚生労働省が掲げる同一労働同一賃金なんて、絵に描いた餅。厚労省のガイドラインに法的拘束力はなく、企業としての義務もない。あまりにも不合理な待遇差をつけていると、従業員から損害賠償請求を受けることがあるという脅し文句も入っている。
 が、会社の駒に過ぎない社員が訴えることなんて、しない。
 訴訟大国であるアメリカやドイツ、中国などと違って、日本では訴訟が少ない。日本人の気質として「訴えてやる!」という気持ちよりも、事を荒立てたくない、面倒事は避けたいという気持ちを優先して、泣き寝入りするというパターンが圧倒的である。
 だからこそ、日本では裁判よりも調停が好まれる。非公開で話し合いが進むので、公になることがない。訴訟なんて起こそうものなら「ただ目立ちたいだけ」と揶揄されるだけだ。日本人特有の奥ゆかしさがにじみ出ていると思う。
「それにしても、チャイムの音を聞くと中学時代をどうしても思い出すんだよね。当時の学校の音と同じだったから」
 健吾は過去を思い出しながら言葉を発した。
「なんでそんなに暗い感じでゆうの。なんか嫌な思い出でもあったん」
「体育教師にげんこつで頭を殴られて、大きなコブができたことがあってね。それがトラウマになっているんだ」
「相変わらず、健吾はトラウマが多いなー。ガキの頃は、俺も似たような体験はあったけども」
 野場は「笑っちゃいけないやろうけど」と断りを入れてから笑っていた。過去にあった嫌なことが年を取ってから笑い飛ばせるようになりたい。
「今の時代では考えられないけど、確かに昔は体罰という名の傷害罪がまかり通っていたのがすごいよな」
「戦時中の強い軍人を育てるという文化が戦後も残っていた感じだった。なぜあんなにもの周りは怒ってばかりで叱責する人たちばっかりだったのかが不思議」
「いまでもそんな人はちらほらいるけど、エンジニアに限って言えば、品質にうるさいと性格もキツくなる傾向があるかなー」
 野場の意見に「そうだねえ」と頷く。
「システム障害は一〇〇%発生するものだから避けられないが、ユーザーは激怒するわけだよ。お金を払っているから偉いという考えが日本人には色濃く染み付いているからさ。日本人は訴えるようなことはしないけども、サービスの運営元にイタ電したり、爆破予告をしたりして、業務妨害をする人たちが一定数いるでしょ。それもまた日本人特有の陰湿さが滲み出ているというか、なんというか」
 健吾は相槌を打ち、続きの言葉を待つ。
「次に、サービスを提供する側はシステムの開発会社に対して激怒する。開発会社のトップは開発部門に対して激怒する。怒りという感情が伝搬していくわけよ」
「結局、バグ出したのが悪い。ミスした人が悪い。いやあ、世知辛い」
 二人はトレイを持って席を立った。
 
 食べ終わった食器は自分で返却口まで持っていく必要がある。いわゆるセルフサービスというやつである。いまどき飲食店はどこも人手不足なので、セルフサービスのところが増えてきた。
 セルフサービスではないお店もあるが、総じて料理の値段が高いので顧客単価が上がる。今の時代、そういう店のほうが潰れやすいように感じる。自宅から会社までの通勤経路にある、ちょっと高めの飲食店が、気がつくと閉店していることが増えて、その度に驚き「あれ、ここ潰れたんだ」と自然と声が出る。
 せっかくコロナ禍が終わったというのに、客離れが進むとはなんとも皮肉な話だ。会社員しか経験したことがないからピンとこないが、経営というのは別世界の話のように思え、一生自分には縁のない世界なんだろうなと思う。
 物価上昇はいったいいつまで続くのか。おかしな世の中になってきた。
 返却口ではベルトコンベアが永久機関のごとく、轟々と動いている。ベルトコンベアにトレイを乗せるところまでがセルフサービスとなる。
 返却口は一つしかないので、ここでも行列ができている。
 行列の末尾に健吾が配置し、その後ろに野場が並ぶ。コンピュータ・アルゴリズムでいうとFIFOに相当するなと思ったのは、健吾の思考がエンジニア脳になっているからであり、自分でも自覚はある。他人に小馬鹿にされることもあるが、別に恥ずかしいことだとも思っていないので、特に気にしていない。気にするだけ時間の無駄だ。なにより、コンピュータが好きでこの業界に入ったのだから。
 都会では行列がデフォルトだ。待つのが嫌なら、行列に並ばなければいいが、そうもいかない画面もあって苦痛が蓄積する。
 ピコン!ピコン!ピコン!ピコン!
 突然けたたましい音が鳴り響く。
 呼吸が止まり、心臓が跳ね上がる。人間は本当に恐怖を感じたとき、悲鳴をあげることはなく、息をするのを忘れる。瞬きをすることもなく、事象が発生している領域を凝視する。
「ああ......いつものアレやな」
 背後から野場の声が聴こえた。
「さてはスプーンをトレイに載せたままにした人がいるな」
 健吾は首だけ右回りに捻り、彼の言葉に応じた。
 この食堂のルールとして、ベルトコンベアには箸とスプーンを載せてはならない。
 ベルトコンベアはプーリーと呼ばれる円盤上の部品を、ベルトを介して動力を伝達するしくみである。プーリーの見た目は歯車に似ているが、似て非なるものだ。歯車は歯同士が噛み合うことで動力を伝達する。高級な腕時計や時計塔などで活用されている。ただ、普通に生活する中で歯車を目の当たりにしたことはない。多数の歯車が噛み合って動いているところなんて、ゲームや映画ではよくみかけるが。
「スプーンのような小型なものはベルトの間に挟まりやすいからなぁ。故障の原因につながるしな」
「上部に金属探知機をつけているんだろうね。検出方式は電磁誘導方式?」
 話しながら、大音量の警告音がいつまで鳴り響くのだろうと気になる。返却口の行列が早く解消してくれないと困るのだが。
「さすがにX線方式ではないやろ。空港の手荷物検査じゃないんやし」
 野場は考え込んでいるような難しい顔で答えた。
「このスプーンってステンレススチールだと思うけど、電磁誘導方式で検出できるんだっけか」
 電磁誘導方式は二つのコイルに電気を流して電界を作り出し、コイルの間を物体が通過したときの電界の歪みを検出するというしくみである。
 鉄は磁性金属でコイル間の磁力線を引っ張るので、検出がしやすい。
 が、トレイに乗っているスプーンは鉄から作られているが、鉄ではない。磁石にくっつかない。
「磁気誘導式だと検出できないけど、電磁誘導方式でも検出できたと思ったで。ステンレスは鉄クロムやニッケルなどを混ぜて作った合金で、非属性金属だが、導体。磁場を導体に置くと渦電流が発生するんで、電界の歪みを起こせるちゅーわけやね」
 野場の解説を聞いて、さすが機械系出身だなと純粋に感心する。
「なるほど」
「導体はようするに電気を通しやすい物体ってことやけど、人間も電気を通しやすいので導体とも言えるわな。人の身体に雷が直撃すると、ただでは済まない。うち一〇%の人は死に至る。ゴムやガラスのような絶縁体は電気を通さないから、金属探知機では検出不可やろね」
「渦電流ってアイエイチで使われているやつだっけ」
 健吾は自宅アパートにあるコンロがガスではなかったことを思い出す。
「そうそう。渦電流はフーコー電流とも呼ばれて、IHクッキングヒーターで活用されている。銅線をぐるぐる巻きにしたコイルに電流を流して、鍋を近づけると、渦巻きの電流が流れる。鍋に渦電流が流れるとジュール熱という熱が起こって、鍋の底が熱くなるってしくみなんや」
「自分で料理しないからよく知らないけど、アイエイチは鍋によっては熱くならないって聞いたけど」
「鉄の鍋ならまったく問題ないけど、一般家庭ではあまり使わないんやないか。中華鍋は鉄だけどガス使うんじゃない。火力が全然違う。ステンレスの鍋だと底に磁石がつく場合は問題ないけど、そうでない場合は厚みによって火力がぐっと弱まるな」
 野場の話を聞いて、健吾はうんうんと頷く。野場の解説はわかりやすくて勉強になる。
「そうするとアルミや銅、土鍋はアイエイチだとダメってこと?」
「オールメタル加熱に対応したコンロだったらアルミや銅もいけるけど、土鍋はIHではダメ。冬の鍋はガス一択で決まりや」
「オールメタル加熱ってなんだっけ」
「二〇〇〇年頭に松下電器産業が商品化に成功したと言われている技術。世界で初めてだったらしいので、当時は日本が最先端を行っていたみたいやね」
 健吾はトレイを持つ手の位置を変えた。ずっと立ちっぱなしなので、少し使われてきた。返却口の行列はパソコンのOSがフリーズしたかのように動かない。
「まだパナソニックじゃなくて松下電器産業だった頃の話かぁ。平成も半ばで、世間ではWindowsXPが出ていた時期に該当するね。当然、特許も出していると思うけど、いまだと特許切れになっているんじゃない」
「そのとおり。特許を出願した日から数えて二〇年で権利が消える。基本特許はもう期限切れているとは思うけど、新しい製品を販売する度に、新しい特許も出していくから。二〇年過ぎたから、競合他社からタダ乗りされるってことはない。弛まぬ、企業努力があることが大前提やけど」
「そういえば、特許は出願して特許登録されるとそれだけで儲かるイメージあるけど、実際のところどうなんだろう」
「特許を持っているだけで売上がアップするわけやない。あくまでも『他者からの侵害を排除する』だけだから。特許登録されたら特許庁に年金も払わないとあかんし、それなりに維持費がかかる。個人事業主やひとり社長でも、結構キツいんやないかな」
 健吾はチラリと時刻を確認する。
「野場、もう時間ないから職場に戻ろう」
 野場は黙って頷き、近くに空いているテーブルにトレイ一式を置いた。健吾のトレイもその横に置く。食堂のスタッフさんに心のなかで謝罪をして、食堂から出た。
 二人は職場へ小走りで向かう。
「そうそう、チャイムの音やけど、ウェストミンスターの鐘と言うらしいで」
 野場の言葉に、健吾は「どこにある鐘なの」と訊く。
「ロンドンにある時計塔ビッグ・ベン。ロンドン行ったことないから直接確かめたわけやないけど、ユーチューブに動画があるで」
「わかった。今度見てみる」
 ネットの動画をみる趣味はないが、精神的に余裕があるときにみよう。
 さて、午後からも仕事がんばろう。
 

Comment(0)

コメント

コメントを投稿する