匿名の開発者 1
キンコーンカンコーン......キンコーンカンコーン......。
どこか遠くから聴こえてくるような哀愁を感じる音が耳に入り、三〇秒経過してから、ようやく音を認識した。突然、集中力が遮られて、糸原健吾は不満げに目の前のディスプレイから壁に視線を移動させる。
視線の先には一つの円周が黒いシミで汚れている、何もない壁があるだけだった。
そうだ、先週か先々週に撤去されたんだっけ。
人間の習慣とはなかなか抜けきらないものなのだなと思う。健吾はパソコンのディスプレイに顔を戻して、右下に視線を移動させて確認する。時刻は12:01を示していた。
もうお昼か。
使っているパソコンの時刻はよく狂うので、いまいち信用ならないが、本鈴が鳴ったので、いまの時刻は合っている。
当然、パソコンに時刻同期の設定を有効にしてある。
セキュリティの関係で社内から直接外部にあるNTPサーバーにはアクセスができないので、社内のプロキシサーバーを経由する必要がある。
が、プロキシでは時刻同期に使うUDPの123番ポートが塞がれている。イントラネットに設置されたNTPサーバーを使う必要があるのだが、なぜか時刻同期に失敗することが多い。原因はわからない。
パソコンの時刻もいつの間にかズレていることがあり、たいていは現実世界の時刻よりも遅れている。ハードウェアのタイマー割り込みで時を刻むので、OSに負荷がかかると割り込み処理が遅れることにより、刻みも遅れる。わずかな遅れが累積していくことで、目に見えて時刻の遅れとなる。
レジストリをいじって時刻同期の頻度をあげてみたこともあるが、本当に頻度があがっているのかよくわからず、効果がなかった。OSの標準機能が役に立たないから、フリーソフトで代用していた。フリーソフトも玉石混淆なのだが、ひとまず期待通りに動いてくれればよく、多くは求めない。作者にお金を払っているわけではないのだから。自分がほしいと思うツールは自分で作る。プロのエンジニアがああだこうだと喚き立てるのは、ただかっこ悪い。
が、昨今セキュリティが益々厳しくなり、当該フリーソフトが使用禁止となった。突然、拒絶通知が届いたときは何事かと焦った。フリーソフトは商用利用禁止、もしくは商用利用は有償というライセンスになっているのならば、完全に自分の落ち度だ。
心臓の動悸が当社比一・五倍になりながら、蓋を開けてみると――
『貴殿のPCから不審なパケットが定期的に発信されています。ただちに停止をお願いします。また、不審な動作をしていると思われるアプリは長期間保守されていないソフトウェアですので、最新版にアップデートするか、PCから削除してください』
一瞬、何を言われているのか理解できなかった。自分の口が開いたままになっていることに気づいたのは、少し唾液が垂れてきてからだった。
仮にもIT企業なのに、この見解はないだろう。フリーソフトなんて作者が趣味で開発していることがほとんどなので、長らくアップデートが停止したままで、やたらと古く見えることなんてザラにある。致命的な脆弱性でもあれば話は別だが、いちいち気にしない。
それにしても、筆が乗ってプログラミングしていたところだったので、興をそがれる。キリがいいところまで続けたい。昼休みに入ったが、ちょっとくらいいいはず。そんなにお腹も空いていないし。
ふと、斜め向かいに座っていた黒尾沙貴と目が合った。まずい。
「糸原さん、お昼休みになったけど、ご飯いかないの?」
彼女はツカツカと自分がいる席に回り込んできて、背後に立つ。
「え、あ、いえ、これから昼飯にしようかと」
「ふうん。また、休み時間中に仕事をしていたのかと思ったわ」
図星である。つくづく、自分は嘘を付くのが下手くそだ。大きな嘘は付かなくてもいいが、人間関係を円滑にするための小さな嘘はつけるようになりたい。
「別に休み時間にちょっとくらい仕事をしてもよくないですか」
「結論から言うとダメ」
黒尾はゼロ秒で即答した。どんな質問が来るのか事前に分かっているのか。未来予測スキルも持っている? いや、単に見透かされているのだろう。こういう頭が切れる人は怖い。
「黒尾さんこそ、休み時間はきっちり休んでいるんですか」
言われっぱなしも面白くないので、言い返してみる。
「わたしは少し雑務を片付けてからランチにするわ」
「えー、それはズルくないですか? 言っていることに説得力がないですよ」
「わたしは管理職で裁量労働制だし、労働組合から外れている。反面、あなたは動労時間に制限があるし、労働組合にも加入している。自由利用の原則ってのがあってね、休憩時間は労働者を仕事から解放して、仕事以外のことに自由に時間を使ってもらう必要があるの。ほら、ちょっと前に、休憩時間中、若手に電話対応の待機をさせていて問題になったでしょ。組合から猛烈なクレームが来て、大変だったらしいわよ」
黒尾の顔は笑っているが、目が笑っていなかった。上司としての建前があるので、指導しなければならないという正義感が強い。そういう人なのだ。
筋が通っているようにみえて、筋が通っていない気もするが、これ以上やりあっても時間の無駄と判断する。
「あー、はいはい。わかりましたよ」
「はいは一回で......いや、なんでもありません」
黒尾は言いかけたことを、アプリと途中で強制終了するかのように、言うことを中断した。そそくさと自席に戻っていった。
言いかけて止めた理由は、知っている。
以前、黒尾がベトナム人エンジニアとWeb会議をしているときに、彼が「Vâng, Vâng, Vâng」と言ったら、
「はいは一回でいい!」
と怒鳴ったという話を人伝で教えてもらった。
ベトナムでは「はい」を何度か連呼するのが一般的で失礼にはあたらないのだが、そのことを黒尾は知らなかったらしい。そのことを同じ会議に出席していた日本人の方から指摘されて、黒尾は当人に謝罪をしたとも聞いた。誰だって間違うことはあるし、それを恥じる必要もない。相手へのリスペクトがあればよいのだ。
昼休みに入ってから天井照明が消灯されて、社内は薄暗くなっている。このまま、ここにいても陰気臭くなるだけなのでそろそろメシに行くかと思い、WindowsキーとLキーを同時押ししてスクリーンロックをかける。続けて、ディスプレイの電源をオフにする。
ここまでやらないと、あとで怒られるのでバカバカしいと思いながら、仕方なくやっている。抜き打ちで、休憩時間チェックという名の監査が入ることがあり、部門長にクレームが飛ぶことがある。
実態として、正社員でルールを守っていない人もいるが、自分のような外注がお目溢しを許されるはずもない。
スマホと財布を持って席を立ったとき、背後から声をかけられた。
「糸原ぁー、いっしょにメシいかへん」
後ろを振り向くと、野場圭一がいた。
「あれ。野場じゃないか。今日、こっちに出社してたんですね」
健吾が答えると、斜め後ろの方から大きな声がした。
「名指しを使わない!」
黒尾は上司。上司の声は、鶴の一声。逆らうだけ時間の無駄である。
二人は肩を竦めて、職場をあとにした。
健吾と野場は社員食堂に向かうため、5Fのフロアから階段を牛歩のごとく下りる。
多くの従業員が一斉に社員食堂に向かうので、階段は激混みだ。エレベーターもあるのだが、荷物を運搬する用だから従業員は使用禁止というお触れがでている。
エンジニアは運動不足だから生活習慣病に罹りやすいので、階段を昇り降りしたほうがむしろいいというのが、ここの会社の方針らしい。それよりも残業することをやめるとか、いっそ週三日勤務とかにしたほうが全然いいと思うのだが。それで健康的になるのだとしても、給料下がるなら、たいていの人は健康よりもお金を選択しそうだけれども。
「ここの階段って、なんかツルツルしてるよな。上るよりも下りるほうに慎重になるというか」
野場は下を向いたまま、一歩一歩下りている。
「野場さんのつっかけ、かかとがほぼ取れかけているじゃないすか」
健吾は自分が履いているサンダルと見比べる。
「そうなんよねぇ。このサンダルもボロくなって新調したいんだけどね。こないだ探しにいったらクロックスしかなくて諦めた。庶民にはムリ」
「サンダル一つの六〇〇〇円も出せないっすよねえ。正社員様なら余裕で買えるんだろうけど。そういえば、ドンキだと二〇〇〇円で売っているらしいすよ」
「え、それって正規品で?」
「そうらしいです」
「でも、ドンキまで行くのに交通費がかかるのもなんだかなーという感じ」
そうなのだ。以前調べたとき、自分たちの行動範囲内には店舗がなくて、遠くまで足を運ぶ必要があった記憶がある。
「ベストなのは百均でまがい物を買うことすよね。今度見つけたら連絡します」
「助かる」
ここではフロアに入るときに土足は厳禁というルールになっている。カーペットが汚れるから。さらに、履き物はかかと付きでないとダメである。安全衛生管理の観点から。確かに、かかとなしだと転びやすくなるので危険だというはなんとなくわかる。
しかし、いざかかと付きの履き物を探してみると、これが案外売っていない。クロックスはどこでも売っているけれども。通販でもあるが、以前Amazonで見つけた商品はぼったくり価格だったので諦めた。
自腹で買うんだから、履き物くらい好きなの使わせてくれ、と言いたい。
そうこうしているうちに、やっと地上に降り立った。
食堂があるのは、別の建物の1Fなので、もう少し歩かないといけない。
ようやくお腹が空いてきた。
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