匿名の開発者 2
食堂の入口に着いた。昼休みは通路でさえ、人で混雑しているため、スイスイと歩いていくことができない。時計をみると12:15を過ぎている。いつものことだが。
客先に来ているときは、たいていランチは社員食堂で食べる。超特急の割り込み作業が入ってきた場合は、一二時から一三時の間も仕事をしている。昼飯も食べずに一四時から仕事をするわけにもいかないので、遅めの昼食を摂る。食堂は一三時までだから、外にでるしかないのだが、食べるところがない。コンビニくらいしかなく、イートインスペースがないので、おにぎりかパンでも買って外でモソモソと食べるしかない。雨の日は面倒だ。他の人たちはこういう時、どうしているのだろうと疑問に思う。
昼休みが一時間しかないってのが、ちょっと短いなとは前から思っていた。二時間とは言わないけれど、一時間半は欲しい。
『使用者は、労働時間が6時間を超える場合においては少くとも45分、8時間を超える場合においては少くとも1時間の休憩時間を労働時間の途中に与えなければならない。』
(労働基準法第34条)
労基法を読むと、きっかり一時間とは書いていない。少くとも......少なくとものことか。最低でも一時間とあるから、別に一時間一五分とかでも問題ないわけだ。
会社の近くに郵便局があるから、休み時間に用事を済ますこともできる。ただ、休み時間が長いと帰宅時間も遅くなるから嫌だと言っていた人もいる。毎日定時であがれる人なんだろうけども、率直に言って羨ましいが、贅沢な悩みだなとも思う。
だいたい、毎日のように残業している身からすれば、もはや早く帰ることを諦めている。そもそも早く帰っても、することがない。いや、それは嘘ではないが嘘だ。本当は早く帰りたい。
それにしても、労基法をはじめて読んだときに使用者という単語が出てきたのにはドキッとした。代表取締役や経営陣のことを指すのだが、労働者をこき使う感じがでていて、ナイスな日本語だなと思った記憶がある。米国だと英語でEmployerだから、訳すなら雇用主である。労働者はEmplyeeかWorkerとなる。
英語でcustomerのことを日本語での訳し方も文化というか派閥がある。お客さんという言い方だと失礼にあたる。顧客という言い方は硬い。だから、お客様を使え、と指導されたことがあった。
内心で相手に敬意が払えていれば、どれでもいいじゃん、とは思っていたが口には出さなかった。自分より立場が上の人の言うことは素直に従うのが、ひとつの企業で会社員を長く続けるコツだ。上から言われることを文句も言わずに粛々とこなし、素直な姿勢をみせる。会社の方針にも素直に従い、失敗をしない人が出世できる。
ただ、正直なことをいえば出世競争には興味がないし、100%会社に忠誠を誓っているわけでもない。会社に忠誠を誓っているフリをしているだけだ。大企業に正社員として雇われているならば、そんな邪な考えを抱くことはないはずだが、吹けば飛ぶような会社にいるとまっとうに生きるのはなかなか難しい。会社と心中したくない。
「糸原、今日はどのメニューにする?」
野場がショウケースの中に鎮座しているメニューを凝視している。
「A定食は鳥のからあげ定食で、B定食はイカリングからあげ定食。どっちもからあげじゃん」
「究極の選択というやつやな」
「私はAで決まり。イカリングにはトラウマがあるんだ」
「え、なんそれ」
野場の顔をみると口角が上がっていた。興味津々らしい。
「いや、大学時代に食堂でイカリングからあげ定食を食べたんだけど、イカリングを飲み込もうとしたらイカが喉に引っかかってね。危うく窒息しそうになったんだよ。いくら咳き込んでも吐き出せなくて、人生最大の危機だったよね、あれは」
健吾は遠い過去を思い出しながら、しみじみと答えた。
「いま生きているってことは死ななかったってことだけど、結局その局面をどう切り抜けたん?」
「なんとか喉の奥から吐き出せたんよ。揚げ物以外、野菜やご飯はまだ残っていたからそれらだけ食べようかと思ってたんだけどね。残ったものはそのまま食べ残して、食堂を出ていったんだったかな」
野場は不思議そうな顔で問う。
「え、どういうこと。食欲がなくなったの」
「確か、あの時は四人がけのテーブルにひとりで食事してたんよね。ちょうど、自分がまだ半分も食べていないときに、四人グループの人たちで来て、自分のテーブルが空くのを待っていた。先に場所取りしておきたかったんだろう」
野場は黙って頷きながら聞いている。健吾は話を続けた。
「いまもそうだけど、自分は食べるスピード遅いほうだからさ。四人のうちのひとりが『早く食べろよ』って怒気を込めて呟いたのが聞こえたんだよね。それでもういいやと」
「ふーん、なるほどねぇ。じゃあ、俺はB定食にしてみるわ」
「おお、チャレンジャーだな。ぜひ、私のトラウマを乗り越えてくれ」
「いや、俺にはそんなトラウマないって」
野場は笑いながら、B定食の列に向かった。
健吾はA定食の行列に並ぶ。三〇人くらい並んでいるだろうか。
ここの食堂では定食以外にも、ラーメン・うどん・蕎麦の麺類もあるが、少食な人向けで、列ができるほどではない。昼にあまり食べないということは、きちんと朝食をとっているか、ダイエット中かのいずれかだろう。もしくは、食欲不振なら何らかの病気の可能性もある。そう意識して列を観察すると、四〇代や五〇代の人ばかりで、どことなく元気がない。まあ、単に働き過ぎで疲れすぎているのかもしれない。未来の自分を見ているようだ。ああはならないように気をつけよう。
定食の値段は安い。内税で六〇〇円。外食で、このボリュームだと一〇〇〇円は軽く超える。正社員だと一割引で五四〇円になり、かつ給料から天引きされるらしい。外注だと割引もなく、現金払いしかできないが、それでも利用させてもらえるだけで、ありがたい。
食事を乗せたトレイを持ったまま、視線を左から右へ移動させて空いている席を探す。二人座れそうな場所が見つけたので、あそこにしよう。野場はどこにいるかなと思い探すと、まだ列に並んでいた。イカリング大人気じゃん。
「いただきます」
野場は食事の前にはかならず合掌する。合掌するときに箸を持つのはマナー違反だということも教えてくれた。彼のこういうところは素直に感心するし、育ちがいいってことなんだろう。
ただ、自分はあまりこのマナーとされている行為を意識したことはない。学校や家で特に指摘されなかったからかもしれない。
食事の前後で発声して合掌する習慣は戦後から広まったもので、学校での教育が下地にあるらしいが、全国で統一されているわけでもない。仏教が由来だから、宗教が異なれば、習慣も変わる。
遠くない未来では学校の給食時に習慣づけすることもなくなりそうな気がする。多様性とかダイバーシティとかいうやつで。
「どっちの定食もそうだけど、温野菜なのはなぜなんだろ。シャキシャキのサラダが食べたい」
健吾は口の中にある食べ物をすべて飲み込み、お茶を飲んでから疑問を口にする。
「あー、あれじゃない。O157を気にしているんじゃない」
野場は答えたあと、美味そうにイカリングを食べている。
「福岡の保育所の給食でで出されたキュウリの浅漬で、集団食中毒が出たやつだっけ。だいぶ前の事件だったと思ったけど」
「比較的最近のやつだと、静岡の花火大会の露店で出されたキュウリの浅漬もそう」
「キュウリ、やべえな。キュウリ好きなんだけど」
「生野菜はというのもあるけど、露店は基本避けるかなあ。焼きリンゴにカビが生えていたとか冗談なのかマジなのか、よくわからないのもあるけど。アイスクリームでもサルモネラ菌で食中毒でているくらいだし」
野場はお茶をぐいと飲み干し、「ちょっとお茶汲んでくる」と席を立った。
O157と聞くと、親世代だと一九九六年の大阪での集団食中毒が酷かったらしい。この年は全国的に集団食中毒が流行って、O157という言葉を日本国民が覚えるきっかけになったそうだ。自分はこの時、生まれていたかどうか定かではないので又聞きだけど。
ここの社食は安く食べられるのはいいのだが、飽きるのも早かった。料理がまずいというわけではないのだが、おいしく感じないのだ。
その理由を知りたくて、正社員の方に聞いてみたら、「朝、大量に作り置きをするから冷めちゃっているからだよ」と丁寧にも教えてくれた。腑に落ちた。だから、あんなにご飯が硬いんだ。まあ、これだけ食堂の利用者が多ければ仕方がないかなと思う。
味噌汁くらい熱々のをその場でお椀に注いでくれればいいのに、とも同じ社員の方に聞いたら、「お椀に注ぐ時、おばちゃんの左親指が汁に浸かるのが不衛生だ、とクレームした人たちがいてね。汁ものも作り置きというか注ぎ置きになったんだよ」と教えてくれた。なるほど。腑に落ち......いや、落ちない。
味噌汁まで冷めていると、自分の心まで冷たくなりそうだ。
すり漆のお椀に浸された低温の液体を、二本の箸の先端で時計方向に回転させると、椀の底に沈殿していた味噌が椀全体に拡散される。味噌が底に沈む前に味噌汁を飲む。
お茶を汲みに行っていた野場が戻ってきた。
「ごめんごめん。ちょっと待たせた。二つあるお茶ディスペンサーのうち一台が故障しているみたいでさ、お茶汲むだけでも行列だった」
「別に気にすることないよ。いつものことだから。平常運転」
社員食堂って、なんか落ち着かない。健吾は小声で呟いた。