原典にあたろう
月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2006年5月号)をお求めください。もっと面白いはずです。
先月は、Googleの功罪について書き「Googleで検索できるから正しいとは限らない」と書いた。例としてアインシュタインの言葉を紹介したが、タイムリーなことに実例を見つけてしまったので報告したい。
●百年の謀(はかりごと)
他誌のことで恐縮だが、2006年3月から日経BP社のWebサイト「IT Pro」で連載を担当することになった(2009年2月で終了)。タイトルは「100年Windows」である。変わったタイトルだが、詳しいことはIT Proを見てほしい。
さて、このタイトルを付けるためにGoogleを使って調べた言葉がある。
諺に曰く、一年の謀ごと(はかりごと)は穀を植ゆるに在り、十年の謀ごとは木を植ゆるに在り、百年の謀ごとは人を植ゆるに在り
(http://www.doshisha.ac.jp/information/outline/pdf/dosh_set.pdf の最後)
1888年、新島襄が同志社大学を設立するときの宣言文である(前身の同志社英学校は1875年設立)。この下りは、同志社の入学式や卒業式には必ず朗読される有名な部分である。もちろんGoogleでも検索できる。「一年・穀・十年・木・百年・人」のキーワードで検索すると4万3200件ヒットした。
ところが、どうもオリジナルは違うらしい。筆者の上司が年始のミーティングで披露した言葉は以下の通りである。
一年の計は穀を樹(う)うるに如くはなし、十年の計は木を樹うるに如くはなし、終身の計は人を樹うるに如くはなし(管子)
最初は引用ミスかと思ったのだが、管子(中国の古典)と、出典まで書いてあるので信憑性は高い。そこで、もう一度Googleで調べてみた。どうやら本当は「百年」ではなく「終身」が正しいらしい。
「終身の計」が「終身刑」を連想させるので「百年」に変更したという説も発見できた。管子では「一たび樹えて百たび獲るものは人なり」と続くこと、一、十と来れば次は百と思い込んでしまうことから誤解が生じたらしい。
ところが「一年・穀・十年・木・終身・人」のキーワードで検索すると2万2400件のヒットしかない。「百年」の半分である。よく、Googleでのヒット数が多いことを正しいことの証拠として挙げる人がいるが、ヒット数では真偽は分からないことも分かった。
ただし、検索結果を注意深く調べると「終身」には出典が記述されているのに「百年」では記述されていないことも分かった。つまり、Googleの結果を慎重に吟味すれば誤解することはない。
それにしても、同志社の卒業生は100年以上も間違った言葉を聞いていたことになる。新島襄は「諺に曰く」と出典を示していないが、周囲の人は教えてあげなかったのだろうか。あるいは、当時知識人の間では「百年」として広く知れ渡っていたのだろうか。
●原典にあたろう
引用をするときは、可能な限り原典を参照したい。明治期であれば、これは大きな労力を必要とした。まず図書館に行き、1ページずつ調べる必要があるからだ。原典となる書籍名が分からなければ、もっと難しい。先の「百年」にしても単に「中国の古典の言葉」だけであれば、検索のしようがない。中国古典に詳しい人に聞くしかないだろう。
幸い、現在では多くの文献がインターネットで検索できる。オリジナル文献全体を参照することは難しいが、部分的な引用は極めて多い。著作権の切れた古典なら全文検索ができることもある。
実際に原典にあたってみると、世間で言われていることが実は間違いであることに気付くこともある。話はITに戻るが、例えばRISC(縮小命令セットコンピュータ)プロセッサである。RISCとは命令体系を単純にすることで動作速度を向上させ、総合性能を向上させるアーキテクチャである。パターソン博士らによりRISCが提案されるまで、プロセッサの主流はCISC(複雑命令セットコンピュータ)であった。CISCは複雑な命令体系を持つ代わりに命令数を削減することで総合性能を向上させるアーキテクチャである。
ところがパターソン博士の最初の論文では、プロセッサを1チップに納めるため(大学の研究室で作るので安く上げたい)仕方なく命令を単純にしたというのである。当然、性能の低下を予想していたのに、ふたを開けると当時の最新鋭マシンVAX-11/780の4倍という速度が出たのだという。しかも、この論文は高速になった根拠を明確に示せていない。実に不完全な論文なのだ。
さて、ここで白状すると、筆者自身、この論文は目を通していない。今書いたようなことは、情報処理学会の会誌で知ったのである(「情報処理」2005年3月号「20世紀の名著名論」五島正裕)。しかし、少なくとも直接の引用文献まではさかのぼれた。これだけでずいぶん信憑性が高くなる。
●根拠を求めよう
「オープンソースのプログラムを使えば安全である」「オープンソースのプログラムを使えばベンダーの都合に左右されない」。こんな意見を時々目にする。Windows Server Worldで見かけたときも驚いたが、もっと驚いたのは、情報処理学会の会誌で見かけたときだ。
情報処理学会といえば、会員が減少を続けているものの、今でも日本のIT界を代表する学会である。にもかかわらず、根拠のない意見が堂々と載ることに恐ろしさすら感じる。実際のところ、筆者自身はオープンソース否定派ではない。特にフリーなソフトウェアについては、ソースコード公開の重要性について15年以上前から主張しているくらいだ。
http://www.vector.co.jp/vpack/browse/person/an001090.html
オープンソースをめぐる誤解は、インターネットコミュニティに多い。もともとインターネットのシステムもカルチャーも、オープンソース的発想から生まれているから無理はない。それはコミュニティの特性なので問題ではないが、検索エンジンはインターネットからしか検索しないため誤解が生じる。
さらに誤解を助長しているのは、オープンソース支持派は個人が多く、否定派は企業が多いことである。個人の主張には金銭的な利益関係がないため、より信用できる。会社の主張はビジネスが絡むため鵜呑みにはできない。そう考える人が多いようなのだ。それは確かに一理ある。しかし、すべてではない。
対立する2つの意見がある場合は、その根拠を調べてみよう。例えば、WindowsとLinuxを比べるとする。セキュリティホールの少ないのはどちらか。セキュリティホールが見つかってから対策ができるまでの期間はどれくらいか。セキュリティ情報の入手は迅速か。それらのサポートに対して費用はかかるのか。こうしたことを総合的に判断した場合、単純にLinuxがよいとは思えないはずだ。
また、ベンダーの都合に左右されずシステムを展開するには、それなりの費用をかけるか社内に技術者を抱える必要がある。もちろん、ほとんどのオープンソース製品は、オンラインコミュニティによる無償サポートが受けられる。しかし、回答期限の保証やサポート期限については明確なルールがあるだろうか。
●時代を生きる
「情報」という日本語には3つの意味がある。DataとInformationとIntelligenceである。
銀行に初めてコンピュータが導入された当時「情報処理」は「Data Processing」と呼ばれた。EDP室(Electronic Data Processing室)という部署名をいまだに使っているところもあるだろう。
現在よく聞くITは「情報技術」と訳されるが、こちらは「Information Technology」である。Dataは現場で発生した生の数値を意味し、それを見やすく加工したものがInformationである。
さらに、Informationを基に戦略的な決定を行うことがIntelligenceである。CIA (Central Intelligence Agency)は、中央情報局と訳される。これがInformationだったら「中央観光局」である。もっともIntelligenceはスパイ活動を連想させるため、Knowledgeという言葉を使うこともあるようだ。
現在はIT時代と言われているが、インターネット上にあふれる大量の情報はDataの域を脱していないように思える。Googleに代表される検索エンジンを使って、データの統計(検索ヒット数)や関係(リンク情報)を入手して初めてInformationとなる。しかし、Intelligenceについてはどうだろう。冒頭で紹介した「百年」も、もし「終身」という言葉を知らなければ、正解にたどり着くことはできなかったかもしれない。何しろ、Googleには「百年」の方が多くヒットしたのだから。
IT時代を生きるには、InformationではなくIntelligenceを活用する必要がある。
では、Intelligenceを活用するにはどうすればよいのか。今のところ、Intelligenceは人間固有の活動とみなされているため、機械的な方法はない。筆者が思うに、Intelligenceを身につける方法は2つ。1つはあらゆる面で基礎を学ぶこと。そして、もう1つは専門以外の知識を身につけることである。これこそが、IT時代を泳ぎ切る力になるはずだ。
そこで、今月は、Windows NT開発チーム内で使われたことで有名になった言葉で締めくくろう。
Swim or Sink (泳げないやつはおぼれろ)
コメント
がると申します。
「原典をあたる」…過去に一度、怒られて、目から鱗が落ちた記憶がありますが。
とても大切だと思います。
無論「原典は玉言のごとく不可侵である」とは全く思わないのですが。
型を知った上で破るからこその「型破り」なのだと思いますし。
(型を知らずに破ったら「形無し」でしかありませんし)。