408.『自己責任論』は破綻している
初回:2025/3/19
「所得103万円の壁」問題から発生した財務省解体デモですが、ちょくちょく見ていると、その後、色々な動画がおすすめ候補に引っかかってくることになり、さらに深い闇があることが見えてきました。
P子「そんな話、信用していいの?」※1
信用するというか、今まで私が何となく感じていたことが、きちんと説明されているように思えましたので、ある程度は信用できます。
今回は、その話ではなく、財務省解体デモ参加者に対して『"努力"しようぜみんな。お前が貧乏なのは財務省のせいじゃねえよ。お前のやる気とか"能力"が足りねぇからだよ』などという自己責任論に対して、そもそも、その考え方が正しいかどうかを検証してみようというものです。
P子「誰がそんな暴言を吐いてるの?」
色々と話題を撒いてくれる人です。
1.『自己責任論』を境界値分析してみる。
プログラミングの世界では、仕様書の境界付近のテストが重要です。この境界値にはバグが潜む可能性が高くなっています。例えば、データの合計と平均を求めるプログラムがあったとします。
def sum_average(data): total = sum(data) average = total / len(data) return total, average data = [1, 2, 3, 4, 5] total, average = sum_average(data) print("合計:", total) print("平均:", average)
このままだとうまく動作しますが、data = [] とすると、ZeroDivisionError: division by zero というエラーが発生します。data = None だと、TypeError: 'NoneType' object is not iterable というエラーですね。
このように、なんとなく動きそうでも、『境界値分析(限界値分析)』してみると、おかしな動きになり、バグが発見できる可能性が高まります。
P子「プログラミングと無理やり結びつけてない?」
日ごろから、そういう目で物事を見ているもので、一種の職業病かもしれませんね。
さて、『自己責任論』で境界値分析するというのは、簡単に言うと、自己責任 0%と、自己責任 100% を検証してみるということです。
まずは、自己責任 100%から考えてみましょう。要するに、すべての責任は自分にあり、他からの援助もなければ制約もありません。要するに北斗の拳の『ケンシロウ』の世界ですね。
P子「国とか政府とかもなく、当然法律も警察も何もない世界ね」
逆に自己責任 0%なら、どうでしょうか?
自分には責任はないのですが権利もありません。完全に国とか政府とかにすべてを押さえられている代わりに国が養ってくれるので、働く必要はありません。要するに『マトリックス』の世界です。
P子「どちらの世界も嫌だわ」
『自己責任論』を論じる場合、どこまでも自己責任でよい...つまり100%でもよいというものではありません。なので『自己責任論』を主張する場合は、何%自己責任ですという主張をしない限り、議論が成立しません。
P子「何%が最適って出せるの?」
そこが難しいところで、例えば自己責任50%だから、働いた分の50%を税金にして、残りは自己責任で収入を増やせとした場合、精神的、肉体的、環境や生い立ちなどの関係で、十分に働けない人たちも存在します。日本国に籍を置くという条件でいうと、憲法25条の『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』から考えると、全国民に対して『健康で文化的な最低限度の生活』を営めるだけの支援を行ったうえで、自己責任で収入を増やせる仕組みを導入する必要があります。
この『健康で文化的な最低限度の生活』基準が難しく、最低限度の生活に必要な年収はいったいいくらなのか? という議論になります。
103万円というルールは1995年(約30年前)に制定され、当時の最低賃金は611円、今は1054円で1.73倍になっているので、103万円×1.73=178万円が妥当というのが元々の趣旨です。
P子「東京都の最低賃金は、1,163円に引き上げられたから、196万円が妥当ね」
≪参考資料1≫
https://www.mbs.jp/news/feature/specialist/article/2024/11/104062.shtml
103万円の壁「壁は何万円に引き上げるのが正解か?」
条件と指標でまるで違う「壁の正解」を試算!!国民・玉木代表は最低賃金1.73倍を主張
物価上昇率なら1.1倍 でも食料上昇率なら1.36倍
24/11/23 08:00
これは労働者が生活する上での最低限必要な年収(ということになっている)ので、働けない人への支援は同額必要ですし、働けないばかりか医療費などの特別な支出がある人たちに対しても当然支援が必要です。それでも、働いて収入を得ている人たちと、働けない人たちの支援金が同額となると、働いている人たちの不公平感が大きくなるので、さらに働いている人たちのモチベーション維持の金額が必要になります。
つまり、政府が存在するという現実から考えると、最低限の生活というレベルが『自己責任論』の0%=出発点に該当するはずです。
ここで、『自己責任論』者は国民の自己責任比率を上げろという主張とともに、政府には最低限の生活レベルの保証をさせて、かつ、小さな政府を目指し、減税を推進しろという主張を行うべきです。
なので、『自己責任論』者こそが、財務省解体デモに参加して自分たちの主張=自己責任比率を上げるべきという主張を行う必要があるということです。
P子「なんか、騙されてる気もするわね」
この、『健康で文化的な最低限度の生活』ですが、最低賃金で通常の会社員として働いて得られる金額の倍と仮定すると、8時間×20日×12か月×時給1,163円×最低限の倍=4,465,920円 を非課税に、病気やケガ、精神的問題で就労できない人たちには、その半額を保証し、それらの収入を税金で賄うという話からスタートすべきと思っています。
P子「能力に見合った収入は、あくまでそれらの最低限の生活を維持するだけの財源確保したうえでということね」
2.『自己責任』ではなく『自助努力』という表現にしてほしい
結構『自己責任』というのが表に出てきて、それが正義みたいに思っている人が多いようです。努力が足りない、能力が低いって言いますが、単に生まれてきた時代や育った環境も大きく左右してるはずです。
今の時代に大成功している人たちが、江戸時代に片田舎の農村の10人兄弟の末娘に生まれていたとして、本当に努力や能力だけで同じような成功ができたでしょうか?また、仮想国家では、足の速さで地位が決まる完全社会主義国家で、100メートル12秒台で走らないと政府高官になれないとして、努力で何とかなったでしょうか?
P子「どんな国なのか想像もできないけどね」
なので、偶然、たまたま、それなりの地位についていたり年収が高いのは、当然努力もあるけど、それ以外の要素も結構あると思います。
それを今自分が成功しているからと言って、まるで自分一人で成功したみたいに『自己責任論』を振り回すのは迷惑でしかありません。
P子「でも、何もしていない人と努力している人が同じというのも不公平じゃない?」
そこで、『自己責任』ではなく『自助努力』という表現にしてはいかがでしょうか? 『自助努力』はあくまで自分を助けるための努力であり、努力した分は自分が助かるということです。自助努力 0%が、憲法25条の最低限の生活ということで、自助努力は、100%でも200%でも、好きなだけ努力すればよいということです。ですが、自助努力していないからと言って、非国民とか税金ドロボーみたいに言われるのは勘弁してほしいところです。
P子「国による心理的安全性の確保という感じかな」
もちろん『自助努力』だけだと、他人を助けないみたいに考えることもできるかもしれませんが、なんとなく責任という言葉より自助という言葉の響きのほうが納得感があります。
3.まとめ
『自己責任論』を振り回す人たちは、現在社会の成功者です。一般人がそのような言葉に振り回されてはいけません。デモしている暇があれば自分を磨けというのは、一見正論ですが、どうしようもない事も現実問題として存在します。
そのようなケースでは、きちんと抗議をして意思を示すべきだと思います。
P子「でも、財源問題もあるわよ」
そのことについては、別の機会に譲りたいと思います。
今回の結論は【『自己責任論』は破綻している】ので、あまり真に受けないほうが良いですということです。
ほな、さいなら
======= <<注釈>>=======
※1 P子「そんな話、信用していいの?」
P子とは、私があこがれているツンデレPythonの仮想女性の心の声です。