P06.連絡係 [小説:CIA京都支店]
初回:2019/05/15
5.連絡係1
山村クレハは浅倉南に言われた通り、新しく派遣されてきた上杉というSEに注意を向けることにした。203応接から戻ってきたカナイ主任から一通りの説明を受けた上杉に、クレハが近づいてきた。
「始めまして。事務の山村クレハと言います。何かわからないことがあれば、何でもおっしゃってくださいね」
クレハは、上杉のデスクまで案内しながらそう言った。パソコンはすでに用意されており、ユーザーIDの書かれた紙を手渡した。
「こちらこそ。上杉と申します」
クレハは横の空き机の椅子を引き寄せると上杉の隣に並んで座り、上杉に先ほど手渡したユーザーIDでログインしてもらった後、ポータルサイトへのショートカットの作成やプリンタ設定を行い、行動予定と業務日報の登録の仕方を説明した。
膝が少し当たっていたが、上杉はあえてそのままの状態で説明を聞いていた。
「ありがとうございます。明日から全力で業務に取り掛かれます」
「それは良かったです。何かあれば、いつでも声をかけてくださいね」
クレハはキュートな笑顔で『じゃね』と言いながら自分の席に戻っていった。
6.連絡係2
その日の夕方、P子は例の半日無償扱いの業務が終わり、CIA京都支店に戻ってきたカツヤを呼び止めた。
「カッちゃん、お帰りなさい。どうだった?」
「あの会議室まで案内してくれた娘、山村クレハちゃんって言うんです。あの後パソコンの設定や日報の付け方なんか、親切に教えてもらいました」
「そういう事じゃなくって...えっと、あなたから声をかけたの?」
「いいえ。事務方のいつものお仕事だそうです」
「ふーん、考えすぎかな。でも少し注意した方がいいかもね」
P子はカツヤにそういうと、場合によってはスパイかも知れないから気を付けてと言った。
「まあ、気を付けさせるのはあなたじゃなくって、タッちゃんの方だもんね」
P子は、彼女と話したことがあるのでなんとなく判るが、スパイであればまだまだ未熟だと感じていた。どちらかというとスパイより連絡要員という印象を受けた。
だとすれば、誰か彼女と通じている本命のスパイがいるはずだ。P子としては、逆にスパイの素性を知る手掛かりになるかもしれないと思ったが、まだスパイの一味かどうかも分からなかったので、あくまで慎重を期するように促すだけであった。
「所で他に気になる人物はいなかった?特に派遣で来ている人の中に」
「スパイとして気になる人は居ませんでしたが、女性として気になる人は居ましたよ」
「そういう事じゃなくって...まあ、今日の出来事はタッちゃんとしっかり共有しといてね」
(この2人、なんやかんや言っても、諜報活動はきっちりできるからもう少し待つとするか)
P子としては、ちょっと頻繁に訪問するように心がけようと思った。
7.新製品
カルイスチールは工場の工具や部品や製品等の保管棚などのスチールラックを主力商品とするメーカーだった。元々は、海外のスチールラックの製造委託と国内の販売代理店だったが、ライセンスを買い取りそのまま自社製品として製造、販売することで業績を伸ばしてきた。
ただ、最近の大型ラックの案件は自動倉庫などに取って代わられ、さらにコンピュータによる在庫管理などが高度化してきたため、カルイスチールの業績は横ばいから下降傾向をたどっていた。
社長の軽井は単身アメリカに出向き、大手材料メーカーと共同開発でカーボンラックに使えそうな材料を模索していたが、ついに製品化に成功したのだった。
カルイスチールの主力製品は5つあった。
・初めてでも扱いやすいのが特徴の『ビギナーズ・ラック』
・5段×2列の収納力が魅力の『ラック・テン』
・部品組み立て仕事が楽に行える『ラック・ラック・フレームワーク』(※1)
・レーガン元米大統領専用に制作した『ロナルド・ラック』
・アフターサービスが万全な修理保証付きの『アフ・ラック』
今回のカーボン素材プロジェクトは、これらの主力製品をカーボン素材で更なる強度と軽量化を図るとともに、将来的にはラックだけでなく自動車部品や建築素材としての活用にも目を向けており、今後の会社の行く末を左右する一大事業でもあった。
実は今回のCIA京都への依頼は、アメリカの大手材料メーカーからの要請だった。日本の企業と共同開発した極秘情報に不正アクセスがあるという警告がシステムから上がってきた。不正と言ってもその特定エリアへのアクセスでパスワードの入力間違いが複数回あったという事で、ハッキングだったのか単なる入力間違いだったのかも分からないが、一応調査して欲しいとの事だった。
通常そのような依頼は受けないが、京都支店としては、調査費用と必要経費は出すとの事だったので表面上しぶしぶ引き受けた。実際には、カルイスチールからも派遣費用を頂いているので2重取りしていることになり、さらにスパイ道具の購入も必要経費として認められるとのことで、来期予算で買い替える予定の古い機器の交換も進めようと言うのが支店長の考えだった。
カルイスチールへの派遣は、最初はカツヤとタツヤが日替わりで行くことになった。環境に不慣れな今なら、入れ替わりもバレにくいからだった。
この2人は容姿もそっくりだが、行動や考え方もほぼ同じだった。また言動に関してはマイクで常に2人に同じ会話が聞こえる状態になっていたので、ほぼ完ぺきに入れ替わることが出来た。
「おはようございます」
今日はタツヤの当番日だった。お目当てはクレハだった。
「あら上杉さん。おはようございます。今日も素敵ですね」
誰にでも軽くそういうことが言える性格は、浅倉南も感心するほどだった。
「そんなこと...ありますよ」
タツヤも軽く返した。2人は笑顔で雑談しながらそれぞれの席に着いた。
8.引継ぎ
山村クレハと浅倉南は今後の方針を検討していた。
「南先輩。あの上杉さんっていうSEですが、ホントにスパイの可能性ってあるんですか?結構軽そうですよ」
(あなたも同じ程度の軽さよ)
浅倉南はそう思ったが、とりあえず監視は続けるようにとだけ言っておいた。
彼もクレハがスパイだとは思わないだろう。彼がスパイならその目的を聞き出せるかもしれないし、何より若干足止めできるだろう。と南は思った。
「クレハさん。ところで新しい情報は何かない?」
「開発環境にあるサーバーまでは入れたんですが、そこにもログインマスタテーブル(※2)があるんですけど、パスワードがハッシュ化(※3)されてるんで判らないんです。それに例のサーバーのセキュリティフォルダって、不正アクセス検知(※4)も動いてるんで、あまりログインエラーを出せないんです」
「工場長のパソコンにキーロガー(※5)入れるとか?」
「アプリ監視が動いてるので、変なソフトも入れられないんです。とりあえず隠しカメラでキータッチは追いかけられたので、パソコンへのログインは可能になってます」
「そのパスワードでセキュリティフォルダにアクセスできないの?」
「セキュリティフォルダは別パスワードで管理してるようで...。しかもなんだかよくわからない方法でパスワードが毎回異なってるみたい(※6)で隠しカメラでも判別できないんです」
「困ったわね。所で工場側の製造工程の情報は手に入った?」
「設備は写真で取ったままですし、購入されてる原材料の成分とメーカーは入手済みです。でも肝心の製造は機械の設定値に依存するので、それが判らないと何とも言えない気がします」
(やっぱり、サーバーのセキュリティフォルダにアクセスしないとダメってことね)
浅倉南はクレハを近くまで呼び寄せると、耳元でささやいた。
「南先輩。こしょばい(※7)ですよ。とりあえずやってみますね」
クレハは、相変わらずキュートな笑顔で浅倉南に微笑んでいた。
9.騙し合い
タツヤはP子に言われた通りクレハに注意を向けていた。それと同時に個人的にも興味があった。
「クレハさん、ちょっといいですか?」
「はい上杉さん。何でしょう?」
クレハはいつも通りの笑顔でタツヤを見上げながら返事を返した。
「クレハさんと仲のいい彼女、なんていう人ですか?」
「仲がいいというか普通に話をする程度ですよ。浅倉さんって言います。気になるんですか?」
「いや、ちょっとね」
「それよりこの間上杉さんと一緒に来られてた営業の人、奇麗な方ですね」
「川伊さんですね。あの人、営業もやってますけどSEでもあるんですよ」
『えーすごいですね』とクレハは言いながら川伊についてもう少し聞き出そうとしていた。
「それより、浅倉さんって、事務だけじゃなくって、結構現場まで出かけてますよね。何をされてるんでしょうか?」
「そんなに浅倉さんの事が気になります?」
クレハは椅子から立ち上がり、休憩室にある自動販売機まで移動した。
「いや、まあ、クレハさんがあまり僕の相手してくれないから...」
タツヤは100円を自販機に入れると、クレハに選ぶように促した。
「ありがとうございます。そういう上杉さんも、浅倉さんや営業兼SEの奇麗な女性の方が気になってるんでしょ」
クレハはキュートな笑顔を少し寂しそうな表情に変えながら小悪魔っぽい態度を取った。上杉が普通の男性ならこれだけでイチコロだったかもしれないが、タツヤはそのあたりのセキュリティーレベルが高かった。
「クレハさんと今度飲みに行きたいな。できれば浅倉さんと3人で」
「えー嬉しいです。なら、例の奇麗な女性も呼びません?何なら、カナイ主任も呼びましょうよ」
2人は自販機の飲み物を飲みながら、にっこりと微笑みあった。2人ともこの合コン話は成立しないと内心思ったのだった。
======= <<注釈>>=======
※1 ラック・ラック・フレームワーク
部品組み立て型の純国産Webアプリケーション開発ツール
https://www.sei-info.co.jp/framework/
『楽々Framework3』 とは全く何の関係もございません。
※2 ログインマスタテーブル
開発環境には時々本番環境からテスト用に実データを持ってくることがある...という想定です。EXPORTで丸ごと入れればログイン管理テーブルも実データがそのまま入っている可能性があるという読みです。
各社の開発者がアクセスできる環境に本番データを入れることは、セキュリティー上好ましくない(非常にまずい)運用方法です。
※3 パスワードがハッシュ化
TomcatのDigest認証ならMD5でハッシュ化されたパスワードでログインできます。ただ、ハッシュ化すれば安全というものでもありませんけど。
※4 不正アクセス検知
IDS・IPS(不正侵入検知・防御)とは?違いや仕組みを図解!
https://it-trend.jp/ids-ips/article/explain
※5 キーロガー
ウィキペディア(Wikipedia)より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%82%AC%E3%83%BC
※6 パスワードが毎回異なってる
「認証」の基礎知識(6):固定パスワードとワンタイムパスワード
https://www.segunabe.com/2017/05/16/auth_info06/
※7 こしょばい
全国の女子に聞いた! くすぐられたらなんて言う? 2位「こしょばい」1位は......
https://woman.mynavi.jp/article/160204-24/