レインメーカー (26) コンプライアンスと退職
2020 年9 月。
田代は会議室のパイプ椅子の上で、全身が瞬間凍結したような感覚に襲われていた。
「すいません」田代は唖然となって訊き返した。「今、何とおっしゃいましたか」
塚本部長はうんざりしたように横を向いた。
「君はもう、ミノカモ精機チームのリーダーではない、と言ったんだ」
「それは」新聞紙を破いたような声だった。「どういうことですか」
3 週間ぶりの出社だ。遅れを取り戻す意欲に燃えてきた。それなのにオフィスに入ろうと、ID カードを入室パネルにかざしたとたん、耳障りな警告音に迎えられた。何だこれは、と思う間もなく、総務課の社員が駆けつけ、塚本部長が会議室で待っている、と告げたのだ。
プロジェクトのヤマ場で戦線離脱してしまったのだ。病気のせいとはいえ、部長としては「感染症対策が甘かったんじゃないのか」ぐらい言わざるを得ないだろう。それに、プロジェクトの進捗状況も気になる。チームメンバーと顔を合わせる前に、概況を頭に入れておくのも悪くない。楽観的に考えながら会議室に入った田代に、塚本部長はねぎらいの言葉一つかけるでもなく、チームリーダーの解任を告げたのだった。
「プロジェクトが今、どうなっているのか知らんのだろうな」
明らかな修辞疑問だったが、田代は頷いた。ジェイビーでは自宅に仕事を持ち帰ることは厳禁だ。個人所有のPC やスマートフォンによって、メールやチャットで業務内容についてやり取りすることも含まれる。現実的には仕事が回らないこともあり、時として無視されることもあるルールだったが、田代は律儀に守っていた。新型コロナに感染して療養中は、会社との連絡は、人事課に体調等を報告するだけだった。
「チーム全員が濃厚接触者となり」塚本は淡々と告げた。「PCR 検査の受検と三日間の自宅待機が命じられた。もちろん、その間は、全てのタスクがストップしたわけだ。検査の結果、木内さんと迫田くんが陽性と判明。幸い二人とも無症状だったが、二週間の自宅療養だ」
「それは人事から聞いてました」田代は言った。「二人には申しわけないと思っています」
「残る3 人は」塚本は田代の謝罪を無視して続けた。「自宅待機終了後にタスクを再開したが、回るわけがない。西久保くんはまだサポートが必要な半人前だしな。滝沢くんががんばってくれたが、深夜勤務の連投で体調を崩し、産業医との面談の結果、休養を勧められるほどになった」
「......」
「やむを得ず、残タスクの大半を、グルーさんに頭を下げて、他のベンダーに回してもらった。特に、君が持っていた分だ。受けてくれたベンダーも、急なことで仕様の理解が不十分なまま実装せざるを得なくなり、数多くのバグが発生した。デグレしてしまった機能もたくさんあったらしい」
田代はいたたまれない思いで上司の言葉を聞いていた。多少のスケジュールの遅れぐらいは予想していたが、そこまでひどい状況になっているとは。
「すでに一度、カットオーバーが延期になったプロジェクトだ。エースシステムも10.1 の本番稼働は絶対にずらせない、と、常々言ってきた。にもかかわらず、このままでは、おそらく間に合わないだろう。無理に強行しても、エンドユーザの業務に支障が発生する、という意見が多い。おそらく今週中にも、カットオーバーの延期が決定されるはずだ」
「......つまり、それが私の責任だと? 病気だったんですよ」
「コロナにかかったことを責めているわけじゃない。だが、誰も責任を取らない、というわけにはいかんからな」
あなたが取ればいいじゃないか、とは言わず、田代は別のことを訊いた。
「今、チームはどうなってるんですか」
「グルーで作業しているよ。向こうの指示でな。迫田くんが先週復帰したから4 人だ」
「木内さんは?」田代は訊いた。「まだ自宅療養中ですか?」
「そのことだが......」塚本は離れた席を見た。
会議室に入ったときに、自分を待ち受けていたのが塚本だけではないことに、田代は気付いていた。見覚えのない中年女性が、会議テーブルの端の方に座っていて、これまでのところ沈黙を守っていた。
「どうも」女性は立ち上がると、近くの席に移動してきた。「ホワイトテラス法律事務所の井出と申します」
法律事務所? 田代は首を傾げたが、すぐにその名前が記憶の底から蘇ってきた。ジェイビーのコンプライアンス窓口業務を委託している会社だ。
「えーと田代さん」井出は分厚いプリントアウトの束を見ながら言った。「木内リオさんについて、いくつかお話をうかがわせてください」
「木内さんの?」
「はい。チームの体制表によれば、木内さんの指導担当は迫田さんだったということですね。指導担当というのは、チーム内で経験の少ないメンバーをサポートするために、質問に答えたり、作業方法を指示したりする役目だとか」
「そうですが......」
「ところが6 月からは、体制表上の指導担当は迫田さんのままなのに、木内さんは田代さんに質問したり、指示を仰いだりし始めたと。これは間違いないですか」
「間違いないですね」
「理由をお伺いしても?」
田代は躊躇した。リオのために迫田と滝沢の雰囲気が悪くなったから、と言っていいものかどうか。
「迫田のタスクが手一杯になってきたので」
「でも、田代さん自身も、決して手が空いていたわけではないと聞いています。むしろ、誰よりも多忙だったと」
「確かにそうですが......」
「それなのに木内さんの指導まで自分に巻き取ったわけですね」
「今、言ったように、迫田のタスクがキャパオーバーしそうだったので、負荷を減らすためです。私自身は、まだ何とでもなりますから」
「本当にそれだけですか?」
「何が言いたいんですか」
井出はマスクのせいで曇ったメガネを外すと、ティッシュで丁寧に拭いた。
「木内さんは」井出はメガネをかけると、肩をすくめた。「美人だという評判だそうですね。個人的な感情で、木内さんとの話す機会を増やそうとしたのではないですか?」
田代は井出をまじまじと見つめた。不意にこの一連の問いの行き着く先が明らかになった気がしたのだ。不快感が背中を走った。
「そんなことはありません」
「そうですか? でも、通常はご自分の席や相手の席で指導すべきところを、木内さんの指導の場合は場所を変えていたと聞きました。事実ですか?」
「......事実ですが」
「つまり意図的に、二人きりになる状況を作ったわけですね」
「そうは言っていません!」
「違うのですか」
「あなたがほのめかしていることとは違います」
「私は何もほのめかしていませんが。では、どうして二人きりの場所で指導を?」
「お話しますが」田代は塚本を気にしながら言った。「別の社員が絡むことなので、個人名は出さずにすませたい。それでいいですか」
「とりあえず、それでお願いします」
田代は、リオを巡る迫田と滝沢の諍いについて、社員A、社員B を登場人物として簡潔に話した。井出は興味深そうに耳を傾けていたが、手にしたペンを走らせたのは数回だけだった。
「なるほど」田代が話を終えると、井出は小さく頷いた。「大変面白いお話でした。ですが事実とは異なる話をされると、調査に支障が出るだけではなく、田代さんにとって不利になることはご理解いただけますね」
「事実と異なる?」田代は訊き返した。「何を根拠に」
「今のお話にあった社員A さん、社員B さんには、すでに話を聞いていますが、そういう事実はなかったと証言されていますよ」
愕然となった田代は塚本を見た。塚本は険しい顔で田代を睨んでいる。
「それなら西久保くんや東浦さんにも確認してみてください」仮称を使う配慮を捨てて、田代は叫ぶように要求した。「当人だと、自分に不利なことは言わないかもしれない」
「そのお二方には、御社の人事課の方からすでに話を訊いたと伺っています。同じように、そのような事実はないと......」
「東浦さんもですか?」
「ええ」井出は頷いた。「契約社員の方ですね。エージェントを通して確認済みだそうですよ」
田代は呻いた。東浦はエンジニアリング仲介サービス企業を通して、1 年更新の契約社員としてジェイビーに来ている。次の契約更新は12 月末だ。契約更新の判断はジェイビーの人事課が行う。その人事課から問い合わせがあれば、その意に反した回答をするはずがない。
「言うまでもないことですが」井出は検察官のような口調で言った。「立場を利用して、相手が望まない環境を作ることはパワハラに該当します。この場合はセクハラの疑いも濃厚ですが」
「パワハラにセクハラ?」田代は笑い出したくなった。「質問をしてきたのは木内さんの方です。私はリーダーとして、彼女に一人前の戦力になってもらいたくて、真摯に対応していたんです。それがどうしてパワハラになるんですか。ましてやセクハラなんて」
「ですから、相手が望まない場合......」
「木内さんは、真剣にプログラマとして成長することを望んでいたんです。同期の西久保くんに仕事を押しつけて、自分は早く帰ることだけを考えていたのに。あるときチーム全員で問題解決にあたったことがあって、それ以来、何かを感じ取ったように、明らかに......」
「あの」井出は苦笑しながら遮った。「失礼ですが、それってあなたの感想ですよね」
「は?」
「私は事実を伺っているんです。田代さんの個人的な意見ではなく、です」
「いや、だから、それが木内さんの......」
「木内さん本人はそうは仰っていませんよ」
田代は絶句した。
「......木内さんが、そう言ったんですか」
「ええ」井出はプリントアウトをめくった。「これは私自身が訊いたことなので」
「具体的にはなんと?」
井出は同意を求めるように塚本に顔を向けた。塚本は早く片を付けろ、とでも言いたげに、ぞんざいに手を振って許可した。
「長いのでかいつまんでお話するとですね、まず......」
井出が語ったリオの証言内容は、田代からすればどこかの並行世界の出来事としか思えなかった。リオは迫田と滝沢から、別々にアプローチを受けていた。どちらかと真剣な交際に発展してもいい、と考え、業務上の質問を口実に二人の性格などを観察しているところだった。そこに田代が介入し、二人とは関わるな、と命令された。質問を二人にするな、自分にしろと。やむなく田代にタスクの不明点などを質問すると、別室に呼ばれるようになった。腕や首筋や脚など、露出している部分を必要以上に見つめられた。イヤでたまらなかったが、リーダーには逆らえなかった。自分が新型コロナに感染したのは、そのせいだったに違いない......
「デタラメだ」耐えきれなくなった田代は遮った。「俺は、いや私はそんなつもりでは......」
「セクハラはされたことより、された人、ですよ」井出は冷静に応じた。「田代さんがどんなつもりだったのかは関係ないんです」
「でも、木内さんは、決して嫌がってはいなかったんです。むしろ、喜んでいたように思えましたが」
「それが彼女の本心だったと断言できるんですか? チームリーダーのあなたに嫌われたら困るので、そういうフリをしていただけ、という方がありうる話だと思いませんか」
「そんなばかな......」
「その他にも」井出は容赦なく追求した。「体調不良で休んだときも、多少無理してでも来い、などと言われた。雑用ばかりやらされた。常駐している雨宮さんと外で会っていたら嫌みを言われた、などいろいろ聞いているんですが」
どれも曲解でしかない。だが、もはやそう主張しても、相手が聞く耳を持たないのは明らかだった。ここは、田代の話を聞いて、事実がどうだったかを調査する場所ではない。初めから結論は出ていたのだ。田代が呼ばれた理由「両者の話を聞いて公平に判断を下した」という建前を作るためだけだ。
「井出さん、ありがとう」塚本が硬い口調で言った。「後は、こちらで話します」
井出は書類をまとめると、立ち上がって一礼した。
「では、これで。最終的な報告書は本日中にお届けします」
法律事務所の人間がドアから出ていくと、田代は塚本に訴えた。
「部長、私はパワハラやセクハラなど、全く身に覚えのないことなんです」
「田代くん」塚本は田代の言葉など聞かなかったかのように冷たい声で言った。「君には二つの選択肢がある。よく聞いて、この場で答えを出してもらいたい」
「部長......」
「一つめは、このまま会社からの処分を待つことだ。想像はついていると思うが、パワハラにセクハラだと、まず懲戒解雇は免れないと考えてもらった方がいいぞ。懲戒解雇の場合、規程で退職金は支払われないのは知ってるな」
もはや反論する気力すら失い、田代は呆けたように上司の宣告を聞いていた。
「二つめは退職届を出すことだ。理由はコロナに感染してプロジェクトに穴を開けてしまったことの責任を感じて、ということにしたらどうだろう。これまでの功績を考慮して、依願退職であればパワハラにもセクハラにも問わないことにする。10 月末退職ということで、それまではたまっている有休を消化しても構わない。退職金も支給される。転職活動を始められるぞ」
田代が黙っていると、塚本は事務的に続けた。
「私としては二つ目をお勧めするが、まあ、どちらかにするかは君の意志を尊重するよ」
田代の胸の内に、静かな怒りが広がった。
「第三の道もあるんじゃないですか」
「ん?」
「不当解雇で会社を訴える、という方法です」
「好きにしたまえ」予想していたのか、塚本は全く動揺しなかった。「まあ勝ち目はないと思うがね。万が一、勝ったとしてどうなるか想像してみたのかね。このまま会社に居続けて、まともな業務を与えられると思うか? 二度とチームリーダーを任せることはないだろうし、社内から白い目で見られる。社史編纂室を新設して、そこに異動させることだってできる。そうまでして何を得たいのか、私にはわからんね。負けた場合は全てを失うのは言うまでもない。それに裁判ともなれば、パワハラ、セクハラ疑惑も公にせざるを得ない。ご家族はどう思うかな」
「......下衆っていうのは、あなたみたいな人のことを言うんでしょうね」
「今のは聞かなかったことにしてやる」塚本は立ち上がった。「しばらくここで考えていい。30 分後に戻ってくる。そのとき答えを聞かせてもらう」
ドアが閉じる音を田代は背中で聞いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
こんな明るい時間に帰宅するのは何年ぶりだろう。田代は暗く沈んだ心で考えた。妻にどう話せばいいのか。明日からどうやって過ごせばいいのか。すぐにでも転職活動をすべきなのか。それとも会社と戦う方法を考えた方がいいのか。
とにかくどこかで座って、ゆっくりと考えた方がいいか。そう思ったとき、後ろから声がかけられた。
「田代さん」
振り返った田代は、東浦が立っているのを見た。
「お久しぶりです」東浦は一礼した。「大変でしたね。もう身体の方はよろしいんですか?」
落ち着いた声に田代は涙腺がゆるみそうになった。
「東浦さん......大事なときに休んでしまって本当に......」
「何言ってるんですか」東浦は手を振った。「誰も病気になりたくてなるわけじゃないでしょう」
「......今日はどうしたんですか? 確か、グルーで作業してると聞きましたが」
「午前半休です。今日、田代さんが出社されると聞いて。ちょっと話せますか。お時間、大丈夫ですか?」
「時間ね」田代は自嘲気味に笑った。「どうやら時間はたっぷりあるみたいです」
「ちょっと離れてますが、駅前のデニーズでどうですか」
東浦が周囲を気にしているのを見て、会社から距離のあるファミレスを指定したわけがわかった。会社の人間がランチに行くには遠い店を選んだのだ。
「いいですよ」
「じゃ、先に行って席を確保してます。この時間ならまだ空いてるとは思いますけどね。後から来てください」
東浦は足早にその場を離れていった。田代は3 分ほど時間を潰してから、駅の方に歩き出した。
デニーズは確かに空いていた。駈け寄ってきたウエイトレスに「待ち合わせなので」と告げて店内に入る。東浦が確保した席はすぐにわかった。
「お待たせして......」
座りかけた田代は言葉を切って固まった。東浦の隣には、リオが座っていた。
(続)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。
コメント
匿名
最強のサークルクラッシャーがきた
匿名
田代さんをより最悪な状況から救うために・・だったと思いたい
匿名
怖すぎるやろ
匿名
福島は営業で塚本が部長じゃなかたったですか?
匿名
レインメーカーさん、最近出番ない(語り手の視界から消えている)けどどうしてるのかな?
匿名
>田代さんをより最悪な状況から救うために・・だったと思いたい
途中まで意欲出して仕事してましたけどやっぱり何か違うなーって思って、
田代さんには消えて貰うことにしました^^
かな。
匿名
「僕たち結婚します」かな?
わん太
> 「それが彼女の本心だったと断言できるんですか? チームリーダーの嫌われたら困るので、そういうフリをしていただけ、という方がありうる話だと思いませんか」
上記は『チームリーダー”の”』ではなく、
『チームリーダー”に”』もしくは『チームリーダー”から”』でしょうか?
(勘違いでしたらすみません)
一読者
すごい!
続きが気になります!
面白い読み物をいつもありがとうございます!
匿名
読んでいる途中で、サウンドノベルのバッドエンドに向かっている感覚に陥りました。
これはキツイ。
リーベルG
匿名さん、ご指摘ありがとうございます。
部長は「塚本」でした。
わん犬さん、ご指摘ありがとうございます。
「の」の後が抜けてました。
やわなエンジニア
なんだか「蜂工場」の台場トシオ編みたいな雰囲気
この後アーカムやSPUにスカウトされたりしませんか(ガクガクブルブル
匿名D
さて、リオ嬢のそれは、どこまで主体的、能動的な行動なのか。
雨宮女史も、衆人環視の中であんな打撃食らって、
何もしていなかったはずはないと思うしなあ。
たむたむ
田代が健忘症の可能性だってある。
他にはどんでん返しの伏線のような気も。